ひきこもり青年のモデルとしての治療者

『思春期の心の臨床』 青木省三著 金剛出版 より

最近、青年の非精神病性の「ひきこもり」が増えているという。
実際に両親が外来に相談に来ることも少なくない。
その心理や病理は一人ひとりによって異なり
十分に検討する必要があるが、
両親と共に何かよい対応はないかと考えるとき、
いつも私の頭の中に思い浮かぶ話がある。
おそらく多くの人が小学校で習っている「天の石宿戸」の話。
スサノヲノ命の乱暴に困り果てた天照大御神が「天の石宿戸」にこもる話である。
その際、たくさんの神々が協力して、「天の石宿戸」の前で歌をうたい踊りを舞う。
それを聞いた天照大御神が不思議に思い、つい石屋戸を開くという話である。

「外に何か楽しそうなものがある」と感じられることこそが、
ひきこもりから脱出する一つのきっかけになるのではないか……。
ひきこもりは決して楽しいものではないだろう。
それでも社会に出るよりはこもっているほうがいくらか安心だからこそ
選ばれている形である。
だから、周囲の大人が青年のために「楽しそうなもの」をいくらか準備したからといって、
青年が「外に何か楽しそうなものがある」と感じるというほどに、ことは単純ではない。
新しいことや変わったことは、それがいくら楽しい可能性があったとしても、
何が起こるか分からない不安や恐怖の方が勝ってしまう。
そもそも、社会の中でさまざまなものを楽しむことができなかったからこそ、
ひきこもらざるを得なかったのでもあるのだから。

そのようなとき、私は思う。
いい意味でも悪い意味でも、おとなは青年のモデルである。
おとなが社会の中で、生き生きと自らの人生を楽しんでいる姿を見ることが、
その青年たちを現実社会へと引きつけていく力になるのではないか。
診察室、面談室、相談室などは、しばしば青年たちの現実社会への窓口となる。
精神科診察室の中で、それも精神科医という人間の向こうに彼らは現実社会を見る。
そのとき、精神科医自身が自らの人生を生き生きと楽しんで生きているか、
そういう意味で青年のよいモデルとなりうるか、と自らに問う必要がある。
精神科医は自らの人生を生き生きと楽しく生きる努力をしなければならない。
そして、生き生きと、時にはくたびれても苦労もまた楽し、と生きている精神科医を通して、
現実社会への興味を再び取り戻すことができるのではないだろうか。

<ツバキが美しいです>