東京浅草のアサヒ・アート・スクエアで2/21・22に行われたAAF2009ネットワーク会議に参加してきました。
気がつけば、AAFにお世話になりだして、もう3年目。
ありがたいことです。
21日は全参加団体からのプレゼンテーション。
今年は全部で26団体。北海道は大雪だったそうで、プレゼンには間に合わなかった団体も。飛行機が欠航して空港で足止めされ、貴重な半日を棒に振った皆さん、本当にごくろうさまでございました。
今回の一番の収穫は、宮城県大崎市からエントリーされていたENVISIさんの「LIFE CAFE」プロジェクト。なんと、緩和ケアの病院と連携して、余命宣告された末期がん患者とその家族との最期の様子を映像に残すという、私たちの「遺言」プロジェクトでやりたかったことのひとつを見事に実践されていたのです。
早速担当者とお話して、とりあえずプレゼンで使っておられたダイジェスト版の映像DVDをお借りすることができました。今後、何らかの交流プログラムに発展するといいなぁ。
続いて翌22日は、グループディスカッション。
アサヒ・アート・フェスティバルの原点(ミッション)に今一度立ち返れり、午前中は「まち・地域」、午後は「アート」について、団体ごちゃまぜの小グループで議論しました。
で、なぜか、私ごときがファシリテーターの大役を務めることに。私と同じグループになった皆様、つたない進行で失礼しました(^^ゞ
少々長くなりますが、以下、グループディスカッションの中で個人的に印象に残ったワードを私なりの解釈でメモっておきます。興味のない人は読み飛ばしてください。
(※以下、グループディスカッションで出てきた意見をベースに、藤田なりの見解や表現を加えてまとめています。意見を出してくださった方、私の解釈が間違ってたらごめんなさい…)
●「市民」≠「地元住民」
AAFの理念に謳われている「市民」とか「社会」とかいうワードにはカテゴライズされない「地元住民」なるものが存在するのではないか。
この「地元住民」を開眼させ、「市民」意識を芽生えさせることが、すなわち「地域」を未来に向かって”離陸”させることである。
●「ギブ・アンド・テイク」
アーティストが、一方的に自分の作品を見せ付けるのではなく、時に、自分にない技能を具体的に地元住民に求めたとする。そして、地元住民は、難なくそれに応え、アーティストは喜び、地元住民に尊敬のまなざしを向ける。すると、地元住民は、自分だって「プロ」であることに気づかされる。地元住民が、「プロ」であることを自覚し、自信を深め、自ら地域の未来を描きだしたとき、「地域」は着実に動き出す。
つまり、そのプロジェクトを受け入れることに対して、地元住民とアーティスト、双方にとっての「メリット」が具体的であれば、道は拓ける。
●「覚悟」
地域の中に飛び込む「覚悟」を持ったアーティスト。
地元住民と、招聘したアーティストとの間を取り持つ「覚悟」を持ったプロデューサー。
よそ者を受け入れ、一緒に面白がれる「覚悟」を持った地元住民。
「覚悟」の足並みが揃わないと、アートプロジェクトは持続しない。
上手に人の背中を押して「覚悟」させられる人が、優秀なプロデューサー。
●「アートの質」…それぞれの認識
<アートプロデューサーの意見>
「アートプロジェクトの質は、「アーティスト選び」にかかっている。地域とアーティストのベスト・マッチングが重要。まちづくりが主目的でアートをやってるのではなく、質の高いアートを提供し続けることで結果的にまちがよくなってくれたらいい。」
<地域プロデューサー(私)の意見>
「そのプロジェクトのBefore-Afterで、どれだけ地域住民の意識や行動が変わったか。地域の課題・問題を解決・改善することこそが主目的で、そのための手段(のひとつ)としてアートがある。「地域を具体的にどれだけ変えられたか」が、アートの「質」を計る唯一の指標であり、たとえ芸術評論家から見てどんなにすばらしい作品ができたとしても、それによって地域が少しも変わらなければ無意味である。」
<アーティストの意見>
「地域において、”アートにしかできないこと”は、”視点の変更(気づき)を劇的に促す”こと。すなわち、作品に出会った人の「目から落ちたウロコの枚数」が、すなわちその作品の「質」である。」
●「作品の質」と「プロセスの質」
完成した「作品」そのものの「質」のほかに、「プロセス」の「質」というものも存在する。
コミュニティーアートにおいては、むしろ後者の方が重要である。
したがって、プロデューサーとしては、できるだけ多くの地元住民が何らかの形で「プロセス」に関われるようなプロジェクトを検討すべきである。
●「面白がることを許す社会づくり」
アーティストは何でも面白がる。面白そうなことは既成概念にとらわれずに何でもやってみちゃう。一般の社会人は、いろんな既成概念に縛られすぎて、それができない。できないから、生きててもつまらないし、明るい未来が描けない。
アートの力で、地域の中に「もっと面白がっていいんだ」という気づきを広げていくことで、地域社会を変えられる、かもしれない。
●●● 〜まとめ(私案)〜 「多様性」 ●●●
「生物多様性」という概念がある。
「地域生態系」において、そこに持続的に生存する種が多様であるほど、系(システム)全体が安定する、というような意味で、生物多様性を保護・維持することは人類にとってもきわめて重要かつ緊急の課題であり、国際条約にもなっている。
…ならば、「地域人間系」(註:藤田の造語です)においても、同じようなことが言えるのではないか。
つまり、地域社会の均一化が進み、同じように思考し、同じような行動をとる人ばかりになってしまうと、やがてその地域は疲弊・衰退してしまう。一方、多種多様な人間がお互いに複雑に影響しあっている地域社会ほど、活力があり、適応力に長け、未来が明るい。
いわゆるアーティストという人種は、本質的に、多様(異質?)であることにアイデンティティを見出し、地域社会の均一化を阻止する方向に作用する。その意味で、アーティストが地域人間系の中に組み込まれることは、系の活力・安定を増進する有効な手段であるといえるのではないか。
とはいえ、アート(アーティスト)の存在だけで、その地域人間系が十分に多様性を担保できる、とまでは考えにくい。
アーティストのほかにも、様々な問題意識と専門性を持った多種多様な人材が介在し、それぞれがそれぞれの立場と知恵と技を駆使して地域を良くしようと行動し、うまく役割分担をしながら、お互いに複雑に作用しあうような状況をうまくコーディネートできれば、その地域は、まちがいなく、希望と活力に満ちていく、ような気がする。
そんな地域社会を、つくっていきたい。
(※私たち「ひょうたんからKO−MA」自身も、フリー司会者・市役所職員・会社役員・コンサルタント・コンテンポラリーダンスマネージャーなど、一見まるで共通点のない多種多様な人材が奇跡的にコラボレーションすることで、今までにない面白い取り組みができたと自負しております。)