今日の「足立区ツイート」は、足立区出身の@ryojikameiさんによるツイートを中心に、そこから触発された私のツイートをまとめてみました
@ryojikameiさん
「真面目にBlogに書いていたら遅くなりそうなので、つぶやいてみる> #adachi
まず、治安について。フォローになってないかもしれないが、治安というのは非常に相対的な概念だと思う。思い出してみるに、私が足立区に住んでいた幼稚園年長から大学1年まで(地元の学校へ行ったのは小学校まで)の間、治安について何ら問題を感じることは無かった。
公園の遊具に落書きがあるとか、アル中親父がふらついていたり、ぶつぶつ独り言だだ漏れの人がいたり。2-3日に1人はそういう人に会うとか、そういうことは「普通」と考えていた。
私の親の店も、盗難被害とかに何度か合っていて、バールこじ開け対策に、最終的にチェーンでがんじがらめにするところまでやっていた。夜間外から聞こえてくるのは夜遊びの高校生の声だった。彼らがやったとも思えないが、かといって盗んで金になるものでもなかったなあと思う。でもそれでも「普通」。
ところが、大学2年に多摩川の向こうの大学近くのアパートにひとりぐらしするようになって、やけに平和な場所だなあと思った。なんというか、ぬるいのだ。恐いのは新聞勧誘員だけだった。以前暴力沙汰がどうとか言って、暗に新聞をとるよう脅していたようだが、全く効かなかった。
つまり、私の中では足立区の治安は「普通」で、他はぬるいということになります。「車でローン」とか、街角にべたべた貼ってあるのが普通じゃんねえ、なんか小綺麗だよねどこも、という感じ。
それから、私の住んでいた西新井には、朝に川口方面へのバスのバス停に多くの中東出身者が列を作っていました。彼らがいる風景というのが、今でもとても印象に残っていて、外国人がまとまって存在するというのが私にとっての「普通」でした。
世田谷とかに住んでいた人からすると、江東とかで既に別世界で、北へ行く程カオスになる、と感じられるそうですが、私の基準からするとあっちはきれい過ぎでバランス悪い世界という感じです。そういう私が北京に行くと、タクシーの運ちゃんが喧嘩していたりして、微笑んじゃいます。
今日本に外国人が入ってきていて、治安の良いと「される」地域に慣れてしまった人からすると、脅威を覚えるようですが、入ってくる予定の人たちの生活もあんまり変わらないなと。彼らの「普通」とはそういうものなのです、と考えられるのは足立に住んでいたからだろうと思います。
なんか起承転結がアレだが、つぶやきなので許して ^^;
来週は9:00当番なので、さっさと寝ます。また明日。」
以上は、ツイッター上への「足立区育ちだというと、びびる人が結構いる。」という@ryojikameiのツイートに対し、私が「#adachi」をつけてRTしたところ、さらに「良いこともありますよ。中国に出張しても平気とか。普通の人は嫌がる。」というツイートをいただいたので、「そのへんについてよかったらぜひお聞かせください」とお願いしたところ、返答いただいたものです。
治安というのは相対的なものであり、根拠というものは生活の上に成立している、という点で非常に卓越した見解であり、重みのあるツイートであると思います。
ちょっと論点がズレていますが(「好き」と「生活」という点で)、これに触発されて書いた私のツイートは以下(一部修正あり)
「@ryojikamei さんが外国人の目、あるいは「足立区」の目を通して見えるものを披瀝してくださいましたが( #adachi参照)、私もおんなじこと(ちょっと違うかもしれませんが)を感じるんですね、きれいなまちやきれいな世界を前にして。
今日、仙台の町を車で走っていて、すごい中華料理屋が目に入ったんですね。道路に看板(中に蛍光灯が入って光っている)が寝かせてあるわけです。で、実はいつもああなんですね。そのすぐ近くにはビルのこっち側だけをすんごい色に塗ったタイ料理やタイマッサージやが入ったビルがある
たぶんああいうのを見ると、「外国人」「治安」「風紀」のようなものに結び付けられ、悪いイメージとしてのリストに入れられていくと思うのですが、私にとってはすごくおもしろいし、好きなんですね。ああ今度行ってみようかなと思うスポットなわけです。同じようなことを昨日、「アサヒアートフェスティバル」のネットワーク会議で聞きました(Ustream中継でですが)
横浜でアートをやっている「ART LAB OVA」が、若葉町でプロジェクトをやる折に、入っていいんだかどうだかわからないタイ料理屋と懇意になった(私も連れて行ってもらって何度か自分でも訪れはまった店なんですが)わけですが、その店がいつの間にか「ちゃんとした」「メニューの出てくる」普通のタイレストランになってしまった、というんですね。
去年の夏に行ったときは、本当にただの近所のたまり場みたいなところだったんですね、もちろんタイ人の。が、ちゃんと料理たのむと出てくるし、いろいろ世話も焼いてくれる。ことわざ攻撃をしてくる子どもとかもいたり、すごくその雰囲気が好きだし、おもしろい。でも「こぎれい」でも「ちゃんとした」お店でもなく、普通の人にはおそらく(確実に)入りくにかったわけです。ところがそれが秋ごろ行ったら「ちゃんとした」店になっている。
ちゃんとしたこぎれいな場所でないといけないと思わせる何か、そういう力、「圧力」が確実に存在して、それが「これが普通だろう」という生活、そういう感覚や「面白さ」、はっとする感じを奪っているように思います。
例えば、いけてない商店街や、なんともダメな過疎地にある湯治場なども事情は同じだと思います。ショッピングモール的観点からいうと商店街は品揃えも値段も卒倒するくらいダメかもしれません。でもそういうことじゃないんですよね。湯治宿もサービスという概念がないんじゃないかと思いますけど、同じくそういう価値ではかってしまっては見落とされてしまうものすごく多くのものを含んだ何かなんですよね。
確かに世の中、サービスが良くて値段が安くて、きれいで安心でけんかも少ないほうがいいように思えますけど、本当にそうなんでしょうか。
本当にこのままいっちゃっていいのか、というところにきていると思うんですね。ものすごくいろいろな生活や感覚が失われていってしまっている。安全安心安いとか何かそういう実際にはすごく暴力的で安全安心どころではないムードで。しかもあとで高くつきそうな気がする」
なお、これらに対しては、
「公園の遊具に落書きがあるとか、アル中親父がふらついていたり、ぶつぶつ独り言だだ漏れの人がいたり。2-3日に1人はそういう人に会うとか、そういうことは「普通」と考えていた。」には「銀座では普通の光景ですが世田谷とかはないのかなぁ。」
「「車でローン」葛飾でも普通です」
「私は、いわゆる「治安の悪い」地域で育ちましたが、今は「いろいろな生活や感覚」と出会えたことを、良かったと思えるようになってきました。」
などのコメントのほか、いくつかのツイートにはRTもしていただきました。
(門脇篤)