はじめに

 その新聞記事を読んだのは、私が日本語教師として赴任したタイの首都バンコクである。「中国政府は、世界各地で中国語学習熱が高まっていることを受け、その支援策として2010年までに2万人規模の中国語教師を東南アジアに派遣」 という内容の記事だ。
タイ、ラオスにおける日本語学習熱を肌で感じながらも、海外での日本語教育施策に日本国政府の存在や意図が感じられなかった私にとって、改めてこの分野における国の役割を再確認させるものだった。
現在、約300万人の外国人が日本以外の地で日本語を学んでいる 。この数が多いか少ないかは政策目標からの判断や他の言語との比較から考察しなければならないが、ラオスのような1人あたりのGDPがわずか419ドルという国で日本語を教えた経験から、その数字を最小評価することはできないと感じる。1つのクラスに小学生から社会人まで、果ては僧侶や売春婦までいる風景は、同時に幅広い層の日本語学習者の存在を象徴するものであった。

中国の存在感は政治、経済の分野にとどまらず、言語教育の場でも語られ始めている。後に述べるが、これまで日本語普及政策の比較対象言語はドイツ語であり、英語であった。2006年上海で行なわれた第5回国際中国語教学シンポジウムの発表によると、現在、世界で3000万人が中国語を学んでいて、2010年には1億人にまでなるという 。日本語学習者より一桁多い中国語学習者の数を聞くと、普段は中国に対する日本の過剰反応をたしなめる私もさすがに強い危機感を抱く。一国の言語の普及は単にその言語の教材が売れるといった経済効果だけのメリットではなく、その国の姿を正しく理解してもらうための重要なツールとなる。この事実はどの言語でも変わらない。日本語学習者の10倍以上の中国学習者の数は、国際社会における両国のプレゼンスをそのまま象徴していると言えなくもないのである 。

しかし、日本語教師として現地に赴任していた当時、そして今も国に言語普及に関する一貫した政策及び、理念はなかったのではないか。
例えば、タイとラオスには日本語を教える独立法人の機関がそれぞれ存在する。タイには、日本の文化政策を担う国際交流基金の海外支部機関があり、ラオスには、国際協力機構が市場経済化移行国を支援する「日本人材開発センター」を造り、それぞれ日本語を教えている。なるほど、両機関とも設立主旨が違うので、比較対象ではないかもしれないが、事業内容の日本語教育に関しては、することは同じでいいはずである。しかし、教科書、カリキュラムなど何一つ同じものを使用していない。その違いが日本語教育の目的が異なるために生じているなら良いが、そうではないようである 。これは、日本にとって経済的なコストの増大を意味するばかりか、何のために日本語を普及するのかという理念の欠如を表している。また、学習する者にとっても機会均等の点で問題があるし、最終的な学習目的を明確化することができていない事態を意味する。
他にも、勤務する学校から多くの学生が日本へ留学したが、受入れ側である日本の基準がまったく理解できなかった。そもそも大学を選択するにあたって、どこにアクセスすれば、統一した情報を得ることができるのか。時々、知り合いの日本人や所属する学校に伝手があった、あるいは時々インターネットで入学の募集案内にヒットした。こんなところが平均的な日本へ留学する学生の姿ではないか。このような現状では、日本語を普及させることは難しい。

外務省広報文化交流局は、日本語を教える拠点を今後3年間に現在の10ヵ所から100ヶ所に増やす方針である 。中国の「孔子学院」 に対抗し、名称は「紫式部日本語講座」とするアイデアも検討されていると聞く。紫式部日本語講座という名称のセンスはさておき、海外で日本語を教えた日本語教師として、また日本が海外からどのように見られているかという視点が今後の日本には必要だと認識している私にとって、上げ足取りをするつもりは微塵もないが、具体的な政策の内容を見ないことには、その是非を判断することはできない。まして、中国語に対抗することにはメリットもあれば、デメリットもあるはずである。

この論文では、特に中国語に対抗することを意図するのではなく、今の時代に求められる一般的な言語普及政策のあり方を考察し、最後に具体的な政策を提言する。また、言語普及は経済力と密接な関係を持っているので、今後の各国の経済変動は言語普及状況に影響を与える。そのため、この論文では、その点を踏まえ今後の経済変動が予測できる期間で、また、その制限の中で言語政策の有効性を確保できるアジア地域に限定し、考察を進めることにする。