修士論文〜第1章第2節−1諸機関と提言の検証

第2節 諸機関と提言の検証

 諸機関と各種提言が考えている言語普及の目的は、国益・相互益・国際益であると理解できた。しかし、本当に言語普及により、その目的を達成することができるのであろうか。

1 言語普及と国益
 
 言語普及政策において国益重視の政策とは、日本からの発信により相手の変化を求めることとする。ここでは諸機関、各種提言が考える「諸外国の理解」「知日家・親日家、ひいては、日本研究者の育成」「我が国のプレゼンスを確保」「日本の魅力の向上・発信」が日本語の普及により達成されるか考察する。
 しかし、その前に上記内容はただ、キーワードを羅列しただけなので、もう少しまとめてみることにする。国益としての言語普及における政策過程は、最初にこちら側の働きかけが行なわれ、次に相手の受容・変化を求める。最後に結果として一連の流れが国益につながるという過程だ。キーワードを並べると、「日本語で日本の魅力を発信し、それにより相手国がより日本を理解する。中には親日家や知日家が育ち、結果日本国のプレゼンスが高くなる」。要約すると、「日本語の普及を通して対日理解者を増やし、国際社会における日本の影響力の浸透をはかる」となる。このことは本当だろうか。
まず「日本語普及→対日理解者増→日本の影響力増」の図式のなかで、「対日理解者増→日本の影響力増」はどうだろうか。“対日理解者”をどのように定義にするかは難しい問題である。また、理解の深度や方法も千差万別である。代表的知日家と名づけられているカーチスやライシャワーのような学問的、政治的に力を社会に発揮できる立場の対日理解と台湾の哈日族のような日本の文化にあこがれるという市民レベルでの対日理解を一括りにはできない。しかし、いずれにせよ知日家が自国民の対日世論や対日政策に影響を与える事例 には事欠かないし、程度の差こそあれ、市民レベルでの理解者もその総数によっては直接的に影響力を持つ。そもそも対日理解とは市井の人々の日本に対する理解の総意であることを忘れてはならない。実際、高度経済成長以降の日本外交は、対日理解の推進に腐心した。これは元総理大臣の田中角栄の東南アジア訪問に際する反日暴動がきっかけとなった。どんなに経済的繁栄を勝ち得ても、対日理解が伴わなければ、その地域でプレゼンスを確保できないと理解したのである。
 次に日本語の普及が本当に対日理解につながるのか。異文化接触の経験が、接触した相手国のイメージを好転させることは、そのことを証明する実証的研究 や調査結果 が存在する。直接に接触するという経験により関心が増し、それに伴い知識が増大することによってそのような結果になったと考えられる。では、言語学習はどうであろうか。言葉とは、文化の理念、価値観、社会規範などを伝達するための重要な手段である。また、人々が交流するための手段、思考をするための手段でもある 。しかし、エドワード・サピアとベンジャミン・ウォルフ(1988)は、言葉の役割を単に手段に止めるのではなく、社会を反映するものであると指摘した。言葉を通して知覚や考え方を一つの型の中にはめ込んでいくというのである 。この考え方によれば、一つの言語が学ばれることは、直接にその社会を知ることと等しくなる。また、近年言語学習方法の主流になっている直接法は、日本語で日本語を教える。すべての学習者に対して、日本人による直接法で教えることが不可能であるとはいえ、日本人と接触する機会が増えることになろう。そうでなくても、日本語の習得は日本人と接するためのツールを得るになる。このように考えると日本語が普及する過程において、異文化接触と同じ効用が期待できることに気が付く 。
 以上のことをまとめると、日本語の普及が、そのやり方によっては対日理解者を増やし、その結果として対日世論や対日政策に良い意味で影響を与えると言えそうだ 。
言語普及と国益の関係を証明する歴史は、戦前・戦時中の植民地・占領地におけるヨーロッパ列強及び日本の言語普及政策の歴史、否その時代だけではなくポスト植民地時代にさえ垣間見ることができる 。現在でも国策である言語普及政策が、まったく国益と無関係であることはない。しかし、国益の定義も様々で、戦前のような侵略の武器 としてではなく、理解者を増やすということなら、積極的に肯定されてしかるべきはずだ。