近江商人・野間清六氏のお屋敷がアートミュージアムに変身したNO-MAさんは、近年特に「地域交流」に力を入れておられる。地元の子どもを対象にしたワークショップを毎年やっていて、ウチ(藤田)の息子たちも、「地元の子どもたち」として、随分とお世話になっている。
入口は違うが、アートと地域の接点づくりという共通項もあり、ヴォーリズ展実行委員会だとか八幡掘祭だとかを通じてNO-MA関係者とお出会いする機会は今までちょくちょくあったのだが、NO-MAさんとマルチメディアセンターは2筋ほど違うだけの超ご近所さんであるにも関わらず、NO-MAさんと私たちひょうたんからKO-MA(名前の表記が若干似ているように見えるのは気のせいです、多分…)とがプロジェクトで協働することは、今まで不思議と一度もなかった。まあ、否が応にもそのうちご縁があるだろうと思っているうちに今日に至っている。
で、今日は、権座やほんがらなどで私自身これまでにも深く関わってきた「農」がテーマであること、AAFでお世話になっている藤浩志さんがゲストで来られることもあり、久しぶりにNO-MAさんにお邪魔してみた…
…ら、思いがけず、見覚えのある方が。
なんと、「ハートアートおかやま」の田野さんが、遠路はるばる来てくださっていた。
ご主人と二人で、初めて近江八幡に来てくださったというので、イベント終了後、一般の観光客が行かない近江八幡のスペシャルスポットの一部をご案内しました♪
(円山のヨシ、権座、沖島と琵琶湖、島町の若宮神社、ほか)
■藤浩志さん語録(抜粋)
この日のメインイベントは、藤浩志さんと小暮さんとの対談トーク。
相変わらず、歯切れよく、頭の整理に役立つトークだった。備忘録を兼ねてメモしておこう(私が感じたことも含めて)。
●「アート」と「アーツ」の違い
既存の常識化された芸術がアートで、既存の常識を飛び越える技術がアーツ。
→私たちひょうKO-MAが志してきた「地域プロデュース」は、最初はアーツだったかもしれないが、過去の成功体験にしがみつこうとすると、それはもう「常識」になってしまう。「常識」になってしまうと、それはそれでやればうまくいくかもしれないが、なんとなく、「ワクワク感」に欠ける感じがする。最近、ちょっとそれを感じていたかもしれない、と改めて思った。
●これからの時代は、「中間領域(ボーダー)」に価値を見出すことが大切。
(商品と廃棄物の中間、会社と学校の中間、農業と消費の中間、など)
(「NO-MA」というネーミングにも、実は「〜の間」=中間、という意味も込められている by 小暮さん)
→なるほど〜
「NPO法人近江八幡市中間支援センター」の代表理事として、このネタはツカエルかも♪
●「表現する」ことと「作品化する」ことは違う/「作業」と「仕事」は違う
表現したいものを編集してシステムに乗っけて初めて「作品」として認識される。
「ズレ」や「違和感」といった「もやもやして形にならないもの」のイメージを形にする作業は、システムに乗っかる前段階の「表現・作業」であり、それ自体は表舞台に出ないから「仕事(お金)」になりにくい。
●表現は、自分の中から湧き出てくるものではなく、対象との対話の中から生まれる
●「交流」と「協力」の違い
→「交流」だけで終わっちゃだめ。
●「アート」=問題を問題化する技術/「デザイン」=問題を解決する技術
→工学畑出身の私は、どうしても結果を求めたがる「デザイン」偏重なのだろう。
●「土の人(地元の人)」「風の人(ヨソモノ)」に加えて、「水の人(サポーター)」の存在が不可欠
風が持ち込んだ種は、土に水を注ぎ続けることで、根を伸ばして大きく育つ。
何をやったか、ではなく、やったことが、地域にどう根づき、枝葉を広げ、派生・連鎖していったか、が大事。
→私たちは、「ほんがら」でそれを心底実感した。
●NO-MAはOS(場、接点)。地域交流事業はOSの機能のデモンストレーション。
だから、地域の人達がプログラムを持ち込めるしくみをつくるべし。
→そうそう、ヨソモノが地域資源を掘り起こすところまではカンタン。問題はいつもその先にある。地元の人達がいかにその価値を自己認識し、自ら動き出してくれるようどうやってシカケるか。
●「活性化」というはこれからの時代に合わない/「豊穣化」はどうか?
豊かさを醸しだす時代にしよう。
●物事の価値は、対峙する対象との関係性によって相対的に変化する
→これ、この前びわ湖ホールで聞いた嘉田由紀子滋賀県知事の話と全く同じ。社会学者である嘉田さんは「間人主義」という言葉で説明していた。ここでも、やっぱり「間」「中間」「ボーダー(あるいはインター?)」に着目することが大切だ、という所に行き着く。
…藤さん、小暮さん、NO-MAスタッフのみなさん、ありがとうございました!!