詩的言語だけでいいのか 日本人の“気”を読み解く 佐々木孝次

気が滅入る、気が重い、気が塞ぐー「気」とは何なのか
近著『「気」の精神分析』(せりか書房)は中国から
導入された気が、日本独自の用語として成立するところから説き起こし
気と心、精神病、自我意識などとの関係を
フロイト、ラカンの精神分析で読み解いた
丹念な分析からは日本語と西洋語との決定的な違いが見えてくる

『西洋の言語では古くから美的、感覚的、感性的な表現をする詩的言語と
意識的、合理的、推論的表現をする哲学的言語の二つが相克している
だが、日本語では日常的なコミュニケーションの場で対立がなく
いわば感性的な誌的言語だけが行き渡っている」

「西洋ではギリシャ以来一つの語とそれが指示する対象の関係を
考察することで真理の観念が生まれてきた
感覚を通してそこから観念語に意味を与える方向に向かうのが
哲学的言語の歴史であり使命でした」

一方、日本では明治以降、西洋の観念語に漢字を充て
翻訳語として受け入れた
だが、そこには決定的な断裂があるという

「翻訳語で日本と西洋がつながると思ったのが最大の錯覚です
評論家の加藤周一はこの点を
“日本人から考える力をすべて奪ってしまった”と評したが
私はもっと以前、中国の漢字と出会って以来
自分の使う言葉で自分を説明できなくなったと考えています
気はそのことをよく物語っています」

日本語は詩的言語による写生文の沃野となったが
哲学的言語を安易に輸入したため、観念語で考え、
論述文を構成する力は根付かなかった
それを痛切に感じたのが東日本大震災をめぐる言論状況だ

「終戦直後の状況とそっくり。
坂口安吾が『戦争も1ツの天災だというようにバクゼンと
諦めきっているのかも知れない』と書いたように
原発事故まで天災と思っているのか、
現地を除き民衆の怒りが伝わってこない」

フランス在住の知人に聞くと当初、被災者の毅然とした態度を
称賛したフランス人も、怒らない日本の民衆に違和感を
おぼえる声が出始めているという

『この国では社会的慣習の力が強すぎて、言葉から意味がなくなり
やることが決まっているので、何を言っても言わなくても同じという
状態が続いている。あとは言葉に単なる合図か、
快と不快の感情を表出する役目だけが残されている」

今回の震災を物質的豊かさを追求してきた戦後日本の転機と見る論者は多いが
『このままでは震災の前と後で日本人は何も変わらないのではないか』
と懸念する。
今、巷間を飛び交う言語が相変わらず詩的言語ばかりだからだ
『国が変わるとはそこに住む人々の言葉の使い方、
ものの言い方が変わること。そう信じて疑いません」

・・・・・・被災者への支援の気持ち、犠牲者を悼む気持ちはもちろんですが
それだけではないのでは?という違和感が私にもあります・・・・・

<タンポポが満開でした>