大震災後第2回目の新潟県刈羽村訪問(4月22日)

2007年中越沖地震で被災され、現在は、福島県浪江町など4町村から避難者を受け入れておられる刈羽村を訪問しました。刈羽村社会福祉協議会の方々に話を伺うとともに、廣川会長さんに、すべての避難所に連れて行っていただいて、避難されている方々とお話ししました。

各避難所で、震災直後、皆様からのご寄付をもとにNVNADからお贈りしたマットレス等のお礼を言って下さり、喜んでいただいていることを実感しました。その後、中越沖地震以来、折に触れてお世話になってきた刈羽村在住のご夫婦を訪問し、お話を伺ってきました。

まず、刈羽村に避難されている方々の人数です(4月21日午前9時現在)
福祉センター 18世帯 46人
赤田集会所 4世帯 9人
勝山集会所 6世帯 16人
高町集会所 5世帯 18人
旅館(荒木屋) 7世帯 30人
 計 40世帯 119人

避難所外(友人宅など)にも208人がいらっしゃるようで、合計327人が避難されています。

刈羽村では、小中学校に24名を受け入れています。小学1年生5人には、ライオンズクラブからランドセルの寄付があり、その他の学年には、PTAの呼びかけでランドセルを集めたとのことでした。

社会福祉協議会の緊急小口資金という制度があります。20万円、10万円、それぞれ4件の利用があったとのこと。県社協と連動した動き(中越地震、中越沖地震の時も出されています)。

<避難されている方々の声>
田植えが始まる風景を見ていると、故郷の田植えが懐かしい。参加したい。

地元の祭りに参加させていただいて楽しかった。

日本語を母語としない若い奥さん「子どもが離れない。」

孫が1年生になり、刈羽小学校に入った。喜んで行っている。村の人が「行ってらっしゃい」と声をかけてくれる。孫も元気に「行ってきます!」と返している。「おはよう」など挨拶もしてくれる刈羽の人は素晴らしい。帰れないなら刈羽に住みたい。家を借りた。

車をとりに一度戻った。ご遺体にカラスが・・・

友人宅にいる人で、行方不明扱いになっている人がいる。南相馬市は、役所から訪問があった。

刈羽村役場から1日2回巡回があるが、役場の人を見る度に「出ていって欲しい」と言われるのではないかとドキドキする(そういう声を聴いて、刈羽村では、皆さんに出ていって欲しいとは絶対言わない、ということをお知らせしておられます)。
 
<支援されている方々の声>
私が被災しているのかと思うときがある。刈羽村が無事なことを見て、改めて、支援している側であることに気づく。

盛り上げてくれる高校生が、地元の高校の再開で帰郷することになり元気をなくしていたり、地元の役所から面会があって元気になる方がいたりして、様々な生活がある。

福島に一度帰ったからといって、おみやげを持ってきてくださったのが嬉しかった。

福島大学、日大の2名が頑張ってくれている

小学校2年生。学校に行って授業が始まると大丈夫だが、始まるまで行くまでが涙。

積極的に話しかけている。

うるさいと言われても話しかけていると話してくださる。

テレビを一緒に見ていて、「復興できる街が羨ましい」と仰ったときには、何と言葉を返して良いか悩んでしまう。

<地域の声>
自分たちも、中越沖地震の時に、最初は、ボランティアをしてもらうことに抵抗があった。それと同様に、やはり、地域のボランティアさんと接するときに、まだ溝があるように思う。例えば、祭りに誘いにくかったりした。

地域でお世話できないと、これまでKOBEや名古屋のボランティアさんにお世話になった自分たちとして、お返しができていないように感じる。

やはり、地震ではなく、放射能が問題で、地震だけであった刈羽とは違うかもしれない。

<NVNADから>
いわゆる自立した生活を始めておられる状況ではあるが、そういうときこそ、ふとつらくなったりするかもしれません。そっとお話をする時間を持つようにしていくことが大切かと思います。その際、イベントや、足湯、あるいは、中越沖地震の際に駆けつけて下さっていたマッサージグループなどが訪問して、きっかけを作っていくことも一案。また、そろそろ桜が美しい季節なので、地元で花見などを催したり、避難された方々の声にあったように田植えなどを一緒に行うなど、様々な取り組みができればと思いました。NVNADとしましては、これからも継続的に刈羽の皆様の声を伺いつつ、刈羽村へと向かうボランティアさんを支援するなど、そっと活動を展開していきたいと思いました。今回も、刈羽村社協の皆様、刈羽にお住まいの皆様、そして、避難されている方々に大変お世話になりました。ありがとうございました。