助けたくても助けられなかった〜66年の日々〜

今日は8月6日。

66年前に広島に原爆が投下された日です。

8時15分、黙とうを捧げました。

被爆体験者の方々の平均年齢は77歳とのこと。

あの日の記憶が残っている方の殆どは、当時小学生から中学生の年齢でした。

今日の広島市長の平和宣言の冒頭で取り上げられていた2人の被爆者の方は共に10代。

自分だけが生き残ったことへの罪悪感、自分の皮膚もぼろぼろだったために小さな子を一人抱くことしかできなかった、無力感。

そういう「助けることができなかった」ことへの罪に苦しむ人々の心を想うと、切なくてなりません。

罪といっても、それは「無実の罪」です。

その「無実の罪」に、この66年間向き合いながら、苦しんできた人々がどのような思いで今日を迎えられているのか。

「助けたくても助けることができなかった・・・」

少年少女が抱くその痛みは、戦争や災害はもちろん、様々な状況の中で、無防備な子どもたちに降りかかります。でもそれは、子どもたちのせいではないのです。

だからこそ、できれば、無邪気に明るく過ごしている子どもたちには、そういう痛みを味わわせたくない。

人は憎しみ合うためでなく、愛し合うために生まれてきたのだし、幸せになるために生まれてきたのだから。

☆アルビレオ☆が戦争の悲惨さや理不尽さに目覚めたのは、そう遠い昔の事ではなく、比較的最近のことです。

8月になると必ず歌うオリジナル曲「忘れないよ」は、今から4年前、2007年7月26日にできた曲です。

前日の7月25日に、多摩市南野在住の寺田修一さんの長崎被爆体験の講演を聴き涙しました。その夜、寺田さんの体験記「枯れない涙」を読んで床についたのですが、翌朝、枕元に置いた体験記を再び読み返しているうちに、メロディーと歌詞が浮かんできて、すぐに起き上がって一気に仕上げた曲、それが「忘れないよ」です。

寺田さんは、当時14歳。中学3年生でした。

彼は、長崎の原爆投下によって爆風に吹き飛ばされます。瓦礫の中からやっとの思いで這い出した彼は、怪我を追いながらも、恩人である友人を探し回って丘に登ります。その時に、頭から血を流しているセーラー服にもんぺ姿の少女から、「助けてください」と救いを求められました。しかし彼は、彼女と目を合わせながらも、その場を立ち去ってしまいます。

あの時、なぜ自分は助けてあげなかったのか。なぜその少女をおぶって大人のいるところまで連れて行ってあげることができなかったのか。「あの日」のことが、いまでも深い罪の意識と共に心を締め付けます。彼は、今でも街でセーラー服の女子生徒をみかける度に、胸が痛むとおっしゃっていました。

また、彼が原爆投下から数日後の夜中にやっとの思いで母親のいる家にたどり着いた時、母は、涙を流しながら、「本当に修一なんだね」と何度も何度も頭のてっぺんから足のつま先まで撫でて確かめたという場面。私はそこでも涙を抑えることができませんでした。

14歳の少年が直面した過酷な状況を歌にしたいなどど考えたことはありません。

でも、せつない気持ちを抱いて眠った日の翌日。
「忘れないよ、忘れないよ あの日のこと」というフレーズがメロディーとともに心に浮かんだのでした。

その時、私は反戦歌のような明らかな平和への歌ではなく、あえて、ラブソングとも読めるような歌にしようと考えました。誰にでも抵抗なく聴いてもらいたかったからです。

歌詞をここに紹介させてください。

もし今日、お時間があれば、インターネットで「枯れない涙」で検索ください。その全文を読んでいただければありがたいです。8月9日にも、この歌詞をアップしたいと思います。

暴力やいじめや飢餓のない場所が世界に広がりますように。

祈りをこめて。

「忘れないよ」

1.
忘れないよ 忘れないよ あの日の事

忘れないよ 忘れないよ きみの瞳

あまりに幼くて 自分のことしか 見えない僕だった

許してほしい

きみの苦しみに 気づいていたのに

言い訳ばかりの 弱い僕だった

あれから きみはどこに 暮らしているのだろう

できるならもう一度 あの場所で会いたい

忘れないよ 忘れないよ あの日のこと

忘れないよ きみよ今も 生きてほしい

2.
あやまち繰り返し 傷つけあうたび

きみの瞳が 悲しく揺れる

ほんの少しの 勇気があるなら 

心開いて 許しあえる

あれから 時は流れ 空しく通り過ぎる

だからこそ みつめたい

あの日の 別れを

忘れないよ 忘れないよ あの日のこと

忘れないよ きみよ今も 生きてほしい

忘れないよ 忘れないよ きみの言葉

「人は誰も 愛するため 生まれてきた」
「人は誰も 愛するため 生まれてきた」