子ども理解=大人理解である
私たちはワンウェーミラー越しに一方的に子どもを見て
理解したり、診断しているわけではない
こちらも自分の姿をさらし、いつも何かしらかかわりながら
子どもと相対しているのである
子どもからも観察され、“診断”されていることを
心にいつも留めておきたい
子ども理解の方法という時、私たちは「読心術」ふうな
理解のスタイルを描いていないだろうか
子どもが何を考えているのか、たちどころに“よんでしまう”(という)
あの方法である
「いまの子は何を考えているのかわからない」という言葉を
親も教師もよく口にする
理解のスタイルが一方的なのである
子どもに問いかけ、どんな気持ちでいるのか、いつ頃から
そう思うようになったのかなどを確かめれば、あれこれ憶測したり
相手がきづかないうちに相手の心を“よんでしまう”といった
超能力的な方法を身につける必要なしに
子どもを理解できるのではないだろうか
子どもが信頼して口を開ける関係を、毎日の積み重ねの中で作っていく
子どもが「責められている」「叱られている」と感じないような
「問いかけ方」を身につける
こんな身近な関わりの中に案外「子ども理解」の奥義が
隠されているのではないだろうか
<桜が咲きましたね>