20世紀の日本を生きた人びと 梯久美子より

明治10年代後半から顕在化し
29年の大洪水で大きな被害をもたらした
足尾銅山による鉱毒被害

栃木県議をへて衆院議員になった田中正造は
国会で何度も質問演説を行い
政府や事業主の責任を追求した

しかし富国強兵に重要な鉱業の発展のため
政府は住民の被害をあえて軽視
請願のため繰り返し上京する渡良瀬川流域の
被害民たちを弾圧した

34年の正造の明治天皇への直訴は警官によって阻止され
未遂に終わったが、鉱毒被害に注目が集まり世論は高まった

政府はそれを鎮めるため鉱毒を治水の問題にすりかえた
洪水さえ起こらなければ被害はないとして、銅山の操業はそのままに
渡良瀬川下流域の谷中村を中心とした地域に
広大な遊水地を造ることにしたのである

谷中村の住人は移住を余儀なくされた
一部住民は立ち退きに抵抗したが、土地収用法が適用され
応じない者への家屋の強制破壊が行われた

こうした中、正造は谷中村に住み込み住民と共に闘いながら
自然に学び土地と共に生きる人々に学んで、それを「谷中学」と名づけた
抵抗運動への激しい弾圧の中、大正2年9月正造は71歳で没した

死の年の2月支援者に宛てた手紙にこんな言葉がある
「谷中の亡びは正に日本の亡びなり。身自ら自らの肉を食ラフものなり
この狂わせるもののあわれさ、苦しめたるもまた人なり(中略)
肉腐れ落ち骨顕る。何をもって人なり国なりというべきか
谷中村の一例ハまた眼の前に顕る」

谷中が亡びることはすなわち日本が亡びることだという
ひとつの村を汚し見捨てる。それはその地域だけの問題ではなく
日本全体のそして一人一人の人間の問題だというのである

そして正造は「谷中村の一例ハまた眼の前に顕る」と喝破する
来年は正造の死からちょうど百年だが、その百年がたたぬうちに
予言めいたこの言葉は現実となり、谷中村はまた私達の目の前にあらわれた

福島の原発事故が足尾銅山の鉱毒事件と相似形であることは
多くの人が指摘するとおりである

国とは何か。人はどう生きるべきか。それが今問われている
同じ月に書かれた正造の別の手紙に次の言葉がある

「日本死しても天地ハ死せず、天地と共に生きたる言動を以ってせよ
天地と共に久しきに答へよ」