昨晩お風呂に入ってますと、
自然に、ポロっ…と左足小指の爪が取れ、
薄くてかわいい爪が見えるようになりました(*^_^*)
普段歩き慣れていない私が、四国歩き遍路行をしたので、
両足の親指&小指の内側が内出血し、
めちゃくちゃ痛かったのですが、
今は痛みもなくなり、新しく爪が生え変わるのを、じーっと待っていました。
右小指は既に生え変わり、
右親指はずっと前に一度爪が剥がれ生え変わっていて、
免疫(?)がついて丈夫になっているみたいで、
さほど内出血はせず、2回目の生え変わりはないようですが、
左親指はおもいっきり内出血をし、
今必死で?生え変わろうとしています。
ほんと、“身体の神秘”といいますか、
爪一つの細部にでも神が宿る勢いで確実に再生し、
より頑丈にしようと身体が頑張ってる姿に、
一言で言えない感動があります。。。
事実上、最後の生え変わり中の指が、左親指です。
これも元々の爪がだんだん上に上がりぐらついて来ましたので、
下に新たな爪が着実に出来ているみたいです(^^)☆
ちょうど来週…高野山に行く時に、
ポロっと取れてくれれば更に感動的です(笑)。
四国遍路行は、弘法大師・空海の後追いの行で、
四国88ヵ所をお参りした後は高野山に行くのが、
基本ルールになっています。
1〜2周目は最後高野山に行きませんでしたが、
今回・3周目を終え、一つの“区切り”として高野山に行き、
最終ゴールとして、お参りしご朱印も頂くことにいたしました。
3周周り、ようやく“何か”を掴み、
真の“結願(けちがん)”出来たような手応えを今、感じています。
四国遍路をまわるにあたって、
様々なお願い事をして皆さんお参りされてはりますが、
私は特にお願い事は考えていませんでした。
しかしながら、一つ分かったことは、
具体的なお願い事はしていなくても、
結願することにより、今の私の願い事が叶うという事実です。
つまり、人生全ては無意識のうちに、
自分自身が進むべき道・あるべき姿へと、着実に進んでいて、
“既にもうそうなっている”ということが分かりました。
お釈迦さまは
『涅槃の域に達すること=成仏(仏に成る)だ』
とおっしゃったそうです。
先日のブログでも書きましたが、その域に達することが仏であれば、
お釈迦さま以外、誰も生きている間には仏様には成れないんです。
そこで空海は1200年前に『これぞ人類救済の教えだ!』と
唐(当時の中国)から密教を輸入して来ました。
私の私見もかなり入っていますが、
密教の場合、『私は仏を目指します!』と
決意(つまり“発心”)した瞬間に、
もうその人は、仏の一員になれる感じなんです。
この密教の仏の考え方を、
実際体感出来るのが正に四国遍路行やと思うんです。
四国遍路1番目〜23番目は徳島県にあり、
これらを『発心の道場』と呼ばれています。
24〜39番目は高知県で『修業の道場』、
40〜64番目愛媛県は『菩薩の道場』、
そして65〜88番目香川県は『涅槃の道場』というステージとなります。
この四国遍路道を、人間の魂のレベルに当てはめますと、
お釈迦さまは『88番目のお寺に辿り着いた人間だけが仏である』
と定義したことに対して、
空海は『遍路行を志し、1番目のお寺の前に立った人間は、
既にもう仏の一員である』と定義づけたんやと思います。
ですので、お釈迦さまと教えは究極的で凡人離れした
ある意味理想論的な感じであったことに対して、
空海の考え方はより庶民的で現実的…
今を生きている人たちが
『こんな煩悩まみれの私でも、生きてる間に仏の一員になれるワ!』と、
あの世での成仏だけでなく、
今生きる喜びや勇気を与えてくれたんやと思います。
約1200年前に空海によって輸入・完成された
真言密教が未だに日本のあちこちで残っているのは、
仏様が人間の煩悩ですら『ありのまま』に
受け入れてくれるような教えだからではないでしょうか。
人間は煩悩という一見やっかいなものがあるからこそ、
苦難や失敗を引き寄せてしまいます。
その厳しい苦行こそが正に、修業そのものであり、
仏への…成仏への道なのです。
だから煩悩も必要であり善。苦行も善。
起こるべき出来事が一切が善…『これがよい』と
捉えていたんだと思います。
弘法大師・空海…。
まだまだ深く学びたいお方であります(%笑う女%)(%王冠%)
・・・さて、明日からしばし、沖縄に飛んで行きます〜(%ニヤ女%)(%雷%)
おシゴト、がんばって追い込みます〜(%ショック女%)(%星%)