四国へのバスの中にて・・・雑感。

4月4日(木)。

愛媛に行くために、久しぶりに朝、

満員電車に乗りました。

梅田から愛媛県西条市までバスに乗りました(%笑う女%)(%ハート%)

朝からニヤニヤしてるのはかなりおかしいけど(笑)、

なんか悲壮な顔(不幸顔)してる人がほとんど。

『人生は大きな荷物を背負っているが如し』

という言葉がありますが、正にそんな風景。

100%幸せ・満足な時って本当に一瞬で、

四国遍路行で言えば、山道をひたすら昇り、

峠に立った瞬間だけ。また次の峠あり、

油断したら転げ落ちる下り道ありです。

赤ちゃんがこの世に生まれた瞬間って何故泣いて来て、

ほとんどの人間がこの世を去る時、

何故人間は苦しんで死んで逝くのか?

そんなことを何となく考えた時、

やはり人間がこの世で生きること自体が

『辛苦の行』なんだというかと思います。

何故今、私たち生きているのか?

生きることは逝く(死ぬ)ことであり、

それぞれ別にあるものでなくコインの裏表の関係…

正に表裏一体であります。

「死にたくないから、死ぬことを考えたくない」と

毎日生きることばかりを考えていたら、

いざ死ぬ時に死に方(生きる最後の後始末)を間違えて、

自分自身や子孫に多大な罪を遺すことになり、

そんな哀れな人もかなり多く見受けられ、

そんな先代(両親祖父母…先代社長等)の大罪の精算に

苦しむ子孫も多いです。

人間は必ず一度死にます。

死んだその瞬間、もしくは死んでそれから何年か経った時から、

子孫の為に未来を見つめ、今生かされている人生のあり方・やり方を

考え実行する必要性があろうかと思います。

それが、「“徳”の本質」なのではないか?

最近はそんなことを感じています。

子孫に“罪”ではなく“徳”を遺す人生。

自分が死んだ後、お葬式で「やっと死んでくれた」と喜ばれるか、

「まだ生きていて欲しかった」と悔やまれるか…、

それを決めるのは自分自身であり、

まさに“今、この時”であります。

“今”という時間の集まりが、

私たちに与えられた“命”(魂と肉体が合一した状態)そのものであり、

私たち自身の未来、そして子孫の未来を創っていきます。

ですので今は、私たちの祖先(先人たち)の過去(徳と罪の集積)のが

齎した結果であります。

司馬遼太郎さんの歴史小説をパラパラと読んだだけでも、

偉大な歴史的人物の“お蔭様”を頂いた結果、

今の日本があり、歴史的人物だけでなく、

私の直系の祖先をはじめ、

この世界に過去生きていた全ての人たちの“お蔭様”を頂き、

今も私の人生を見えないところ(陰)で支えてくれていることに触れますと、

その人たちと気持ちが繋がり、無限に拡がる“宇宙”を感じます。

そんな境地に達しますと、“徳積み”をしたくて仕方がなくなります。

つまり「人から救われる人生」から、「人を救う人生」へと段階が上がるんです。

人を救うと、更にハイレベルの人から救われるという状態になります。

「救うと救われる」「出せばば入る(発顕還元の原理)」の境地であり、

“救い合う”状態なんだと思います。

ほんと世の中って「おかげさま」であり「おたがいさま」であります。

この原理を的確に掴んでいれば、

“要物必与”(その人にとって必要な時に

必要なものが必ず与えられる)ので、

人生において路頭に迷うことなく、スムーズに物事が流れていきます。

が、ここで一つのポイントなんですが、

“見返り”を求めて人を助ける&救うのは間違いです。

見返りはそれを求めただけ“徳”は差し引かれ、

最悪、手元に残るのは“罪”だけになります。

また別のポイントなんですが、本来人を救う器のない人が、

人を救うおうとすると、これも“罪”のようです。

この手の人も意外とたくさん存在するようです。

分かりやすい事例で言いますと、

年始100万円の人が慈善団体に100万円寄付することであり、

また自分が経営する会社が倒産寸前にも関わらず、

それを隠して、他社の経営相談に乗ってあげることです。

本来の“救い”とは、自分自身を良く見せる為の行為ではなく、

救う余裕のある人がする“陰徳”であります。

劣等感から発生する“救い”は偽善であり罪です。

まずは自分自身を救い、足元を固め、

ある程度他者を救える器(余裕)が出来てから、

救わないと結局これも“罪”となって、自分自身を滅ぼしてしまいます。

先日、政治家の方とお話しする機会がありました。

最近、政治家の方と話す機会が増えました。

政治家という仕事は正に“救う”のが仕事のようです。

人を救う、地域を救う、国を救う…。

私が町を歩いておりますと、「救う価値に乏しい人間」が

ある程度の割合で存在することが見えて来ます。

どのようなタイプの人間かと言いますと、

自助努力ゼロで100%“他力本願”な人間です。

事例を申しますと、若い時に“キリギリス”の如く

稼いだお金を全部散財し、老いて仕事が出来なくなった時には一銭もない。

だから生活保護を受け、国(他者)におんぶにだっこ状態。

生活保護者は医療費もタダやから病院行きまくり状態。

真面目に働いている人をあざ笑う“輩”

(やから。あえてやからと書かせて頂きます)。

生活保護を受けて負い目や罪悪感を感じるどころか、

逆に堂々と「アンタも生活保護受けたらええねん〜」と、

他人を最悪のステージに引きずり落とし続けている。

だけどそんな輩も、政治家にとっては「一票」(国民の権利)な訳です。

だから国民としての義務(納税)をしていなくても、

相手しないと行けない訳です。

政治家の本分の一つは確かに「社会的弱者の救済」ですが、

こんな輩たちに時間や足を囚われて、本当に哀れで、

その「一票」にすがって、もう一つの本分である「国家(地域)全体の救済」が

出来ていません!

だから今の日本はこんなに政治が混迷し、いっこうに弱者救済が

出来ていない訳です。

“他力本願”で思い出しました。

他力本願という言葉・考え方は、

親鸞の浄土真宗が発端のようで、

我が大阪もこの浄土真宗が圧倒的に多いですが

(お葬式に行くと全部浄土真宗形式です)、

親鸞が説いた他力本願は、

今の私たちが捉えている意味とは違っていたようです。

今はまだ、平安時代の空海の真言宗を勉強中なので、

鎌倉時代に発生した浄土真宗までまだ行ってませんが、

私の乏しい知識経験でお話ししますが、

「“南無阿弥陀仏”と唱えてさえいれば、極楽浄土に行ける」

という言葉の前に、「身の回りの人たちを大切にしながら…」

という言葉が本来は入るようです。

わざわざ人里離れた場所で修業をする(山の行)のではなく、

今生活している場所やそこにいる人を大切にしながら生きるという

“里の行”に徹しなさいということです。

だから浄土真宗の総本山は、里(都会)にあるんだと思います。

高野山や比叡山、大峰山など僻地にあるのは比較的古い宗教か、

一部の新興宗教だけです。

ただ、「人を大切にしなさい」と(ヨコとの繋がり・調和)のみだと

ぶれて漂流するのが人間の性(さが)であります。

そこで必要となって来るのが「阿弥陀如来」という、

あの世のシンボル・象徴(タテとの繋がり・調和)であります。

「極楽浄土に行きたければ、阿弥陀如来を拝みなさい」…

その言葉の真意は、阿弥陀如来や極楽浄土&地獄というものの存在を

人間に広く知らしめることによって、

「子孫(自分がこの世を去った後)のことも考え大切にしながら、

今を生きなければなりませんよ」と

当初の浄土真宗のお坊さんたちは説いて回られたんだと思います

(現代の浄土真宗のお坊さんたちはただの

“葬式坊主”に成り下がってる傾向にありますが)。

鎌倉時代は、貴族社会から武家社会へ進むの過渡期であり、

世の中も今とは比べものにならないくらい混迷し、

人々の心も荒み、今よりも「人よりも自分、未来よりも今」と、

自己中心的な思想が蔓延っていたと推測されます。

そんな時に人生に嫌気がさしたたくさんの人たちが、

“世捨て人”となり野山をさ迷い修業(ある意味「現実逃避」)したら、

実社会は回らなくなります。

以上が私の薄学の上での推測ですが、

こんな感じで、我が国の歴史(過去)や思想を遡ることにより、

今を大局的視点で客観的に全体が見えてきます。

今の私たちは、何やかんや言っても

過去の延長から発生した存在であり、

過去の徳と罪の集大成であります。

そんな流れ…運命…命を運び続けている

私たちの自己努力で“生きている”のは、

ほんのごく一部であり、ほとんどはそんな大きな時代の流れに

“生かされている”訳です。

今はもう見えませんが、

過去には間違いなく存在していたものであり事実であります。

だから見えなくても今もまだ時代の中に、

そして私たちなDNAの中に存在し続け、

今を生きる私たちを陰で支え続けてくれています。

そんな大局的視野を持ち生かされていることに感謝(神恩感謝)した上で、

人を大切にしながら、自分が出来る最大限の自己努力を積んで行くことが、

自分自身の人生を切り拓き、未来を次の時代を創っていって、

次の世代に“命を運んで”逝くのが、

本来あるべき人間の姿…いきざま…なんだと思います。

ほんと、人生とは重い荷物を背負っているが如し…。

だけど、その重い荷物の中にあるのは

「未来という名前の“希望”」なんだと思います(%笑う女%)(%ハート%)