四国遍路 4つのステージについての雑感

愛媛県西条市・・・伊予西条駅に着きましたぁ〜(%笑う女%)(%王冠%)

バスの中であれこれ考えていた、

四国遍路の4つのステージについての雑感です。

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第一のステージ・徳島県(発心の道場)
第二のステージ・高知県(修業の道場)
第三のステージ・愛媛県(菩薩の道場)
最終ステージ・香川県(涅槃の道場)

…と昔から4つのステージ・段階があると言われています。
これらを分かりやすく「家づくり」で例えますと…

徳島県では、古くなった家を壊すステージ。
要るものは残し、要らないものは全て捨てる。

高知県は、更地になった地面を地ならし・足固め、
土壌改良するステージ。

愛媛県は、その地面の上に、いよいよ建物を建てるステージ。

そして香川県は最後の仕上げ。
建物の中の内装や外回りを完成させるステージ。

この4つのステージの中で最も印象に残っているのが私がいまいる、
愛媛県の第三ステージであります。

歩き遍路中、私のブログを見て下さっていた方はお分かり頂けたかと思いますが、
高知県から愛媛県に入った松尾峠から、
ブログの内容がぐっと変わった…
つまり一気に進化と深化が成されたということです。

発心と修業はまだ「人間」の状態で、菩薩と涅槃は「仏」の状態に入っていきます。

もしも私が愛媛県から歩き始めていたら、
イキナリ菩薩のステージに入る訳でもなく、
発心と修業のステージ(目に見えない地道な修業)があるからこそ…
修業の土台がちゃんと完成したからこそ、その土台の上に、
菩薩、そして涅槃が乗ることが出来る訳です。

この見えない「土台づくり」を怠る人は多いように見えます。
見た目は立派な天守閣をお持ちでも、ちょっとの地震(苦難)で
それが傾いたり崩壊しています。

やはり建築も人づくりも“突貫工事”じゃダメだということかと思われます。

上記の松尾峠で私に何が起こったかと言いますと、
「今、ここに私がいるのは、必然なんや!今、ここに私はいるべき人間なんや!」
ということに気付いたんです。

その言葉が天から降って来た瞬間は、雷が頭に直撃したようでした。
今でも鮮烈に覚えています。

この言葉の真意は、「(歩き遍路をしていることを含め)私が今生きていていること、
毎日起こる出来事は全て、自分自身にとって必要だから起きてるんや!」
という“万象肯定”という、全てが善と物事を捉える心のあり方を言います。

それまでは、人生でも遍路でも
「何でこんなめんどくさいこと、せなアカンねん」
「何でこんなしんどいめをせなアカンねん」
「何でこんな訳ワカラン人に騙されたんやろー」などと、
“これは善、これは悪や”と自分の感情・主観選別し、
いつも心のどこかに不足不満を抱え、それが心全体、
そして私自身の人生を惑わし、狂わせて来ました。

それまでは「ま、人生ってそんなもんかぁー」って
ある種の諦め感がありましたが、そんな心のあり方の間違いに、
その松尾峠で気づかせて頂きました。

それから私の人生も歩き遍路行も、ぐっとよくなりました。
“悪”といいものが無くなり、“善”だけになりました。
一見“悪”である“苦難”は「起こること全ては、
私をよりよくする為に起こる試練」だと捉えるようにより“善”に変わったんです。
だから一見悪い出来事でも“善(これがよい)”な訳です。

この苦難に対する考え方“苦難観”が掴めただけでも、
歩き遍路をした価値がありました。

その次に、愛南町から宇和島市のバスターミナルまで
一日で42キロも歩いた経験から得た気付きで、「やればできる」ということです。

それまで「私は一日25キロまでしか歩けない」と思い込んでいました。
しかしそれは私の先入観で、自分自身で自分自身の無限の可能性を
潰し続けていた…ということに気づかせて頂きました。
私の人生、そんな感じで今まで狭めて来たんだと分かりました。
だからその有限性の殻を破りたいと思い、あえて42キロに挑戦し、
無事歩ききることが出来ました。

「やればできる」と、自分自身の人生を切り拓くのも自分自身であり、
潰すのも自分自身であり、他人でも社会でもありません。

この42キロ体験にはもう一つ、大きな気づきがありました。
42キロの挑戦を始め歩きはじめた時に、
愛南町ご出身の三原さん(私が親分と尊敬している経営者のおじさまです)
から電話がかかってきました。

その電話の中で私は、愛南から宇和島まで42キロ歩きますと話しますと、
三原さんいわく「絶対無理!止めた方がいい」と
私の身体を心配して頂き、そう言って下さいました。

「分かりました、無理はいたしません」と言いながら、
内心ますます歩破するゾという気力が湧いて来ました。

ところが、28キロくらい歩いたところで、だんだん気持ちが萎えて来て、
宇和島行きの路線バスに目が行くようになりました。
ここからが苦行のはじまりでした。
俗人的思考と仏的思考とが常に綱引きをし、
いよいよあれこれ考えるゆとりもなくなり、ただヒトの形をした物体が
前進運動をしている…だけにありました。

だけどそれが正に“空(くう)の境地”なんだと分かりました。
自動車でいう“N(ニュートラル)”の状態。倫理用語で言うところの
“すなお”の状態です。

そんな空…からっぽの状態で物事を見聞きしますと、
宇宙の果てまで(全てがありのままに)見通せる感覚です。
そんな心境に達しながら前進運動をしてますと、
私の歩き遍路を激励する電話やメールがじゃんじゃんかかってきました。

後で分かったことですが、電話を下さった三原さんが倫理法人会の仲間に
“メーリングリスト”を使って、私に激励メッセージを贈るようにメールされてはりました。
振り返って思いますと、そんな皆様の応援がなければ
最後まで歩けなかったと思います。

人生遍路も、誰かの応援や支えがあってこそ、
生きてゆけるんだということに気づかせて頂きました。
これほど“仲間”というものの大切さに涙したことはなかったかと思います。
だけど思う訳です。
「人様に“応援したくなる人”と思われる人にならないといけない」ということに…。

次の大きな気づきは、内子町です。
そこに「民宿シャロン」という民宿がありそこに泊まりました。

その民宿は2階にあり、1階はレストランでした。
そのレストランで夜ご飯を食べる流れとなっていました。
小さいレストランながら100くらいメニューがありました。
私は連日30キロ歩いてましたので、ガッツリと“豚の生姜焼き定食”が
食べたかったんですが、焼肉やハンバーグ定食はあったんですが、
豚や生姜はなく、悶々としていました。

迷っているうちに、ますますお腹は空くし眠くなって来て…
そして“何か食べられるだけでも有難い”と思うようになり、
メニュー最後に書かれていた「おまかせ定食 1050円」に決めました。

もう店長にオマカセです。何が出て来ても喜んで頂きます。
すると出て来たのがナント☆“豚の生姜焼き定食”でした!
これには仰天しましたが、「やっぱり、その時々に必要な物が与えられるんや!」
ということを確信した瞬間でした。

その後、内子町から松山に抜ける山道も壮絶で、
背伸びした無理難題な計画を立てたせいで、
熱中症で倒れる一歩寸前になったり、
その惰性でバスに乗ってしまったりしました。

自らが立た初心を貫き通すことの難しさは結局のところ、
自分自身が作り出していて、自身の怠慢(あり方)や
計画の立て方(やり方)のまずさが引き金になって、
それに併せて外部環境も悪い方向に流れ出すということに気づきました。

次の気づきは松山です。
当時の私はある苦難があり、それをどう解決しようか悩んでいました。

朝6時半、松山城がある山の上から美しい
『坂の上の雲』の風景を眺めていると、ふっ…と
「イチからやり直そう」という言葉が降って来ました。

四国遍路で結構道を間違えましたが、
最も早く間違いを正す方法は『間違い始めた場所まで戻る』ということです。

だから私は『自分自身が間違った所まで戻る…イチまで戻ってやり直そう』と、
見栄やプライドを捨て、今までの間違ったやり方や考えの全てを捨てました。
すると前途洋々の境地が見えて来ました。「失ったものはまた探せばいい」
そんな心境になりました。

愛媛での…私遍路行での最後のそして最大の気づきは、
松山から今治へ向かう道を歩いている時に起こりました。

突然降って来たんです、言葉が!

「私が歩き遍路行をしているのは、
“本当の私”と出会うため。その“もう一人の私”は、88番・大窪寺で、
“今の私”と出会うのを待っている」

ほんまこれは仰天な言葉でした、
そこから私は歩きながらひたすら「“今の私”と“もう一人の私”とは何?」と
感じ考え続けていました。

四国遍路行は弘法大師・空海と一緒に仏への道を歩く修業で、
だから『同行二人(どうぎょうににん)』という言葉が、
私が持つ杖(金剛杖)などに書かれています。

その杖は空海自身であり、私たちを守りながら導いてくれている…
という設定であります。

実は空海とは空海ではなくて、その『もう一人の自分』であり、
『なりたい自分』『あるべき自分』なのではないか?という結論に達しました。
あるべき自分の象徴が空海のような神や仏と呼ばれている絶対的な存在で、
88番・大窪寺がそんな絶対的存在である自分自身に出会う場所なんだと感じました。

だけどよくよく考えてみれば、両方自分自身であり、
両方ともに自分自身の心に存在する訳なんです。

人間は自分自身のことが一番よく分からないようです。
分からないから迷い悩み苦悩に満ちていきます。

自分自身を知る“内観”という作業を、1232キロの四国遍路道という
“外部の目に見える空間”を使って、起こる苦難を通して
心の歪みを直しながらひたすら内観し、自分自身を知るという
進化と深化の作業を行っているんだと思います。

四国遍路行は、まず自分自身に還る(深化)の行であり、
そして自分自身を飛躍させるための進む(進化)行であります。
今の自分とあるべき自分の対立状態から、2つの自分が合一した時から
全てがはじまり、全てが生成発展していきます(倫理で言う、対立の原理)

こんな体験と気づきを、倫理法人会で講話させて頂いています。

以上のような素晴らしい体験と気付きをさせて頂いた
第三ステージ・愛媛県でまたこうして講話させて頂くのも、
不思議なご縁であり、感無量でございます。。。

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さて、これからホテルで「お遍路スタイル」に着替えて、

しばし「お遍路ウォーク」して参ります〜(%笑う女%)(%王冠%)