日 時 平成25年5月15日(水)
場 所 宝塚男女共同参画センター
講 師 みれん歴史歩こう会の皆さん
今川義元は大軍を率いて進軍中にわずかな織田信長の軍に敗れ
ある意味評価の低い武将ですが、他方 駿河・遠江・三河から尾張
の一部までを統治していた戦国大名で、これだけの領地を支配する
ためには決して愚鈍では出来ず、やはりひとかどの武将であったと
思われます。
義元は今川氏親の五男として生まれ、幼少の頃は仏門に入って京都(建仁寺〜妙心寺)で修行いたしましたが、18才の時に家督を相続していた長兄・氏輝と次兄・彦五郎が同時に亡くなり、三男・恵探との間に後継者争いが起こります。(花倉の乱)
義元はこれに勝利して家督を継ぐと、今迄敵対していた甲斐の武田氏と同盟を結び、その後隣国の相模の北条氏とも同盟を結びます。(甲相駿三国同盟)
こうして後顧の憂いを無くしておいて、いよいよ尾張の完全制覇に動き出しましたが、桶狭間において信長に急襲されて敗死してしまいます。
桶狭間での敗因は、①風雨のため織田軍が視界に入らなかった、②織田軍は最短距離で襲ってきた、③今川軍は大軍だったが分散して宿営していた・・・等々が考えられます。
義元は敗者ですが、戦国大名としては文化(茶道や和歌等)にも通じた高貴な武将でもありました。