「捨てて得る幸せ」

最近、こんなことを思っています(%ニコ女%)(%星%)

私が28〜9歳の頃は、不本意に(ある種必然的に)

あらゆるものが無くなり、私のところから去っていきました。

しかしながら今は違います。

私の意思と選択により、

不必要なものから順番に捨てておりますし、

本当に必要なものしか得ておりません。

多くの人たちが、

『何かを得ることで、何かを得られる』。

そう思い日々頑張り生きています。

確かに、そうしなければ己の命や仲間…

子々孫々が生成発展してゆかないという面もあります。

しかしそれのみに終始心が囚われるのは、

「取った取られた」の対立&争いの世界…

誰もが不足不満の世界(これこそ“娑婆の世界”の正体)の中で葛藤し、

もがき続けることになります。

果たしていつまでもそのような精神的な境地で、

永遠の(真の)幸福を手にすることが出来るのか?

…諸行無常ですが、

一時の幸福・優越感だけでも味わえればまだよい方で、

多くの人間は不足不満の“娑婆の境地”から抜け出せず(『解脱』出来ず)、

苦しみ嘆き死んで逝く。

私は、それとは全く逆の着眼的思考を行く

『捨てることによって得られるもの』が実は、

人間がこの世界で味わえる最もレベルの高い幸福であり、

これが釈迦のいう『成仏』なのではないか?

という“仮説”を、四国遍路の道端で拾い、

それを日々の生活の中で実践を通して深化させ、

そして直感的に『確信』に至たりました。

後は、どのように理論的・科学的に

その真理を裏付けるか?という作業を

私はしなければならないと考えています。

現在愛読中の司馬遼太郎氏の小説

『坂の上の雲』の主人公のひとり、秋山好古の言葉・・・

「一家一族、邦家の実利を挙げ、名利放棄して速やかに閑居するを要す」

(一族をあげて国家に実利をあたえ、その功績による名誉と利益は受けない)

そして、その兄の教えに、忠実に従った真之の生き様(逝き様)が、

私に鮮烈且つ強力な感動と、私の上記仮説の確信を与えてくれています。

あと先日尊敬するおばさまと5時間くらいお話しさせて頂き、

一つ明確化したことがあります。

それは私がなぜ遍路行や、

歴史小説にこだわっているか?ということです。

そこには“真理”がある。

私が真に求めれば、それを全てを与えてくれるからです。

真理というと怪しい新興宗教の臭いがしますが(笑)、

本来『宗教』の意味・意義とは

『生きていく上での大切な教え(=真理)』です。

この真理(原理原則)を外すと、

私たち人間は外すごとに不幸になっていきます。

『得るほど幸せになる』のは100%のうち

4%程度の『見える世界(顕界)』の話であり、

『捨てるほど幸せになる』は

残り96%の『見えない世界(幽界)』の話のようです。

ここまで書きますと、

「よしこちゃんの話は高尚過ぎて分からない」と

また言われそうなので、この辺りでやめときますが(笑)、

こんな感じで、捉えどころのない真理を、

明確化し言語化(見える化)する作業は、至難の業であると同時に、

私の知的好奇心をくすぐり続ける“ライフワーク”でもあります(%笑う女%)(%王冠%)