明治の教育機関 「新島 襄」

日 時 平成25年6月11日(火) 午後の部で実施
場 所 明石市男女共同参画センター
主 催 (財) 兵庫県芸術文化協会
講 師 茨木一成氏(日本歴史学会会員)
 新島 襄氏とその妻八重は、(同志社大学及び同志社女子大)の
創設者として知られています。 襄は天保14(1843)下級
武士の子として生まれ、八重は江戸末期に合津藩士の娘として
生まれ,23歳の時会津戦争で敗戦したが26歳の時兄覚馬を頼り、 
京へ移住した。 襄は元服後、友人から貰ったアメリカの地図書から、アメリカの制度に憧れを持つようになります。 元治元年(1864)「快風丸」に同乗して函館に向かう。 アメリカ船にベルリン号に乗り込み日本脱出。 その後ボストン港で2カ月あまり船番として過ごす。 そして「脱国理由書」をハーデイに渡し上陸を許され、すぐさまフィリップス・アカデミーに入学します。 明治4(71年3月)ボストンでワシントン駐在の外交官森有礼に初めて会い、また5月頃、将来アメリカ制度に沿った学校設立を打診される。 
 そして明治8(74)日本伝道通信員の資格も取り、横浜に帰着。 また京都府顧問の山本覚馬の賛同を得、同志社英学校を創設し初代社長になります。 またこの時の縁で妹の八重と結婚し14年間夫を支え、襄が亡くなった後の42年間は日本赤十字社の社員として働いた。
 人生出会いが一番で、山本覚馬と襄と八重の出会いがなかったら同志社大は別の形になったかもしれません。