『大津皇子挽歌をめぐって』

(%紫点%) 前期講座(文学・文芸コース)の第9回講義の報告です。
・日時:6月6日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:大津皇子挽歌をめぐって
・講師:坂本 信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.「日めくり万葉集」から大津皇子関係の歌三首(DVD)
*「日めくり万葉集」…NHK Eテレの放送で好評だった(万葉集を題材として毎朝5分間、一首ずつを各界の著名人が思いを込めて語る番組)。(朗読:壇ふみ、編集:坂本信幸、藤原茂樹)
「百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」 (巻三・416)(大津皇子)(選者:浅田次郎)
「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」(巻二・165) (大伯皇女)(選者:俵万智)
「わが背子を 大和に遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし」 (巻二・105)(大伯皇女) (選者:立松和平)

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2.大津皇子謀反事件…*右の資料を参照。
(1) 『日本書記』持統天皇称制前期条
「朱鳥元年(686)9月9日、天武天皇崩御。10月2日、親友の川島皇子の密告により、大津皇子の謀反が発覚し、逮捕。10月3日、大津皇子賜死。・・・」
(2) 『懐風藻』大津皇子伝
「大津皇子の人柄は、文武両道に秀でた大器として、周囲のの信望を集めていた。(中略)、新羅僧行心にそそのかされて逆謀を進む。・・・ついに処刑された。時に二十四歳。」
●謀反を企てたとして処刑された大津皇子
・天武天皇の後継者として本命視されていたのは、草壁皇子と大津皇子である。草壁は第二皇子で母は皇后の鸕野(持統天皇)。一方の大津は天武と大田皇女の間に生まれた第三皇子。鸕野と大田は姉妹。第一皇子には壬申の乱で活躍した高市皇子がいたが、母の身分が低いということで、皇位継承者からはずされていた。立太子したのは草壁。
・天武天皇の葬儀のさなか、不可解な事件が起こる。9月24日、大津に謀反の嫌疑がかけられ、10月3日には処刑された。あまりにも迅速な事件処理と処分の内容から、謀反は草壁の即位を願う鸕野周辺によって仕組まれたのではないかという説が有力である。
○万葉集には、大津皇子事件とされた関連する歌が収められている。うち十首までが巻二にある。
・大津皇子の辞世句
・巻二挽歌四首(大伯皇女)
・相聞歌六首(石川郎女と大津・草壁)

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3.大津皇子関係の歌々の仮託説について
仮託説
・大津皇子関係の歌々は、一部ないし全部を、後人が名前(大津皇子・大伯皇女)を騙って、歌を作ったという説がある。
大津皇子・辞世歌…「雲隠れなむ」
「百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠れなむ」(巻三-416)(大津皇子)
《訳》(磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去っていくのか)(“百伝ふ”は磐余の枕詞)
・仮託説…「雲隠りなむ」は死を敬避した表現だから大津自身の物言いらしくない。
・仮託説を疑う(実作と思う)…「自分の死に直面して詠んだ歌には、敬避表現が用いられ、『死』の語は使われていない」→「敬避表現の存在を持って仮託説を証明する事はできない」
★大伯皇女(大津皇子の姉)の挽歌二首
「神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらまくに」(巻二・163)
「見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに」(巻二・164)
・この二首は、大伯皇女が作った歌であろう。
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***まとめ***
仮託か否かは、歌の表現を解明する事が肝要で、大津皇子関係の歌々を、全て第三者の歌(仮託説)として、とらえるのは問題である。(坂本先生)