毎度です〜っ(%笑う女%)(%晴れ%)
「あつっ、あつっ、暑〜いっ(%ショック女%)(%ショック女%)(%ショック女%)(%ショック女%)(%ショック女%)」って
一日に百回くらい唱えてる、今日この頃のよしこちゃんですっ(笑)。
7月末、徳島県南部の四国遍路番外札所「鯖大師」さんから、
室戸岬にある、24番・最御崎寺まで歩く間で、
ある本がいいよ〜という情報をゲットしましたので、
早速買って読んでみました(%ニコ女%)(%星%)
それは、大野正義さんという大阪・門真市役所の
元・行政マンが書かれた、『これがほんまの四国遍路』。
歩き遍路9回・・・すごいおっちゃんです!
その中に、現在の88ヶ所のお寺は、
江戸時代・元禄時代(江戸時代の中で最も華やかだった時代)に実在した
「眞念」という名前の、大坂出身で、
寺院などまともな組織に属したことのない・・・無学で極貧の風来坊が、
一般大衆(修業初心者)が修業&お参りしやすいために、
独断と偏見で勝手に88ヶ寺を割り振りし、
出版会社を通してその遍路道の歩き方(日本初の旅行ガイドブック的本)を
売りさばいたらしいんです(驚)☆
その本は売れまくり、それがそのまんま現在の88ヶ所になった訳です。
なんとまー、テキトーなイキサツですっ(%ショック女%)(%ショック女%)(%ショック女%)(%ショック女%)(%ショック女%)(%星%)
(※ちなみに、西国33ヵ寺は、最初からそのお寺に番号がついていたようです)
それが決まる前は、修業者が行きたい時に行きたい場所や
ルートを勝手に決めて行ってたそうです。
眞念の独断と偏見っぷりには賛否両論がありますが、
四国遍路を一本の修業ルート化し、修業を大衆化させたという面では、
物凄い功績に値すると思います。
私はこの本を見て・・・
「んじゃー、88ヵ寺を規則正しく歩まなくてもいいねんやー」って
悟りましたっ(%ニヤ女%)(%ハート%)
自転車・車、そして徒歩を3周、四国遍路を回らせていただき、
ぼちぼちと、「更なる行をしてみたい」という
行者なら誰でも湧き起こる、欲求がふつふつと湧いてくるわけです(笑)。
その本を読んだ夜、横になってますと、ふっと・・・
「そうだ、石鎚山に行こう」
・・・って言葉が降りて来たんです(%ショック女%)(%星%)
石鎚山は、四国88ヶ所にも番外札所にも入ってないんですが、
以前四国遍路行してた時に出会った、
かなりエキスパートの歩き遍路のおじさんが
「今回は途中、石鎚山も歩いて登ります!」って
おっしゃってはったので、
私も“四国遍路スタイル”で登ってみたくなりました。
ベッドから起きて、パソコンで石鎚山を調べてみてビックリ!
よしこちゃんがある意味、弘法大師・空海よりも尊敬している
『役行者(えんのじょうじゃ)』(奈良・大峰山の開祖)が開祖なんですね・・・この石鎚山って☆
なんだかもー、最近ますます、私自身、あやしくなってきまして(笑)、
1300年前に存在していた役行者や、
1300年前の日本(大和政権が出来た時代)・・・。
古事記が編纂されたり、女帝・推古天皇や聖徳太子、
藤原鎌足が登場した時代に関心があり、今、あれこれ調べています。
どうして今、1300年前かといいますと、
私の薄学な知識と、そして“直感”ですが、
1300年前、この国で起こっていた、あらゆる問題と
その問題を解決した方法(1300年前の日本人の叡智)が、
今を生きる私たちにとって最も役立つ知識
(っていうか、私たち日本人のDNAの中に存在している経験)
だと直感しています。
・・・こんなかんじで、だんたんとぶっ飛んで来ましたが(笑)、
私の四国遍路修業も(人生自体も?)、だんだんと“初心者”を越えて、
88ヶ所のこだわりを捨てたステージに向かいつつあり、
何だかますます人生が楽しくなってきました(%ニヤ女%)(%ハート%)
「修業とはなにか?」
それは『厳しい山道を歩くこと』的な狭義ではなく、
『問い続ける・探し求める』ことなのではないか?…って最近思います。
自分自身とはなにか?自分自身、どうあるべきか?
何を成すべきなのか?
…そんなたぐいのことを、問い続けることなのではないでしょうか?
その答えは時期や人それぞれ違うし、答え自体、
はっきりとは分かりません…っていうか、
『分からないように“出来ている”』ような気がします。
人生、答えがすんなり分かったり、先が呆気なく全部見えてしまったら、
「どれだけ頑張っても、未来は既に決まってるんやしぃ〜」って、
誰も努力・修業しないと思います。
分からないからこそ、分かろうと努力する、欲する・求めるからこそ、
得るために修業するんやと思います。
・・・苦行をすればする程、心身が冴えてきます。
神々的な…人間の思惟を越える、『偉大なる存在』から
何か偉大な力を得て、娑婆の世界で自らの煩悩を満たそうという
“見返り”を求める人生の修業者は、いくら苦行をしても
何も得られないどころか、ますます人生が堕落しています。
私は何か絶大なパワーを得る為に修業している訳・・・
生きている訳ではありません。
ただ私自身が今歩んでいるこの人生…
与えられた限りある“命”というものを、精一杯輝かせ、
活かすために修業しています。
命の最大限の活かし方・・・それは自分と同時に人様の命が輝く為に
わが身を活かす・生かす・行かす・そして“逝かす”ことなのではないでしょうか?
・・・生きてるとその過程で
『余計なもの』がどんどんくっついて来てしまいます。
まずはそれを修業によって捨てる…捨て切ると、
必要な時に必要なものが、必要な分だけ与えられるようになってきます。
あと思うことは、
『限界』というもは、本当は無いんだと思います。
自分自身が勝手に限界を決めているだけだと思います。
自分自身のペースで、自分自身の無限の可能性に、
これからも挑戦し続けると同時に、救い救われながら、
みんなと一緒に幸せになっていきたいです。
そのために私は、山で修業したり里(娑婆の世界)で修業し、
ステキに精進し続けたいと思いま〜っす(%笑う女%)(%王冠%)