日 時 平成25年12月10日(火)
場 所 池田泉州銀行講堂
主 催 TOYRO倶楽部
天下人の要求に応えて秀作を描き続けた狩野永徳の紹介です。
永徳は狩野派のエリートでカリスマ的存在でもあり、信長・秀吉
に密着して仕事をした人です。
孫の探幽が13才の時に、将軍・徳川秀忠の御前で絵を描いた
ところ「永徳之再生」と賞したとされ、狩野派の創始者・正信では
なく永徳の名を出してほめたほどで、当時の有名人であったことがうかがえます。
永徳は秀吉時代までは「細画」(丁寧で細かく描く)と「大画」(対象をクローズアップして描く)を描いていましたが、その後は主として「大画」のみを描いたとのことでした。
信長と永徳の関係ですが、現存する作品に「上杉本・洛中洛外図屏風」がありますが、これは信長が謙信に送るために描かせたと言われています。
また秀吉と永徳の関係では、「大阪城障壁画」「聚楽第障壁画」等を描いたとされていますが現存せず、江戸時代に徳川家が豊臣家に関する全てを消し去ったことと関係があるのかもしれません。
永徳は、各々タイプの異なる権力者(信長と秀吉)に、それぞれに応じて対応していった絵師で、まさに天才画家と言っても過言ではありません。
(写真は、永徳の代表作である「唐獅子図屏風」です。)