明治の教育機関 「津田 梅子」

平成25年12月10日 (火)午後の部
場所 明石市男女共同参画センター
主催 (財)兵庫県芸術文化協会
講師 茨城一成氏 日本歴史学会会員
 津田梅子さんは優秀すぎて、語っても面白くないと講師が
嘆いていました。 英語が得意で津田塾を創設したことは現代人
なら誰でもが知っています。 梅子らは、1871年開拓使派遣の
5人と共に米国に出発、しかし、お国柄が全く違うため、1年後
(吉益亭子、上田悌子)らは心労のため帰国。 残りの3人が米国で頑張りました。 しかし梅子はわずか6歳での旅立ちであり、11年後の帰国時には日本語を全く忘れて通訳を要し、同期の山川捨松の援助で日本での生活を行いました。 
 その後天長節の夜会で伊藤博文・下田歌子に会い、梅子は使えると言うことで、伊藤の推薦で、華族女学校に奉職し年俸500円となった。 しかし私塾創設の夢は捨てきれず、1900年7月20日東京府に女子英語塾の創立の申請を行い、6日後簡単に認可が下り、梅子が初代塾長となります。 
 同年、9月1日入学者10名、来賓は17名で授業を開始し、その後津田塾大学と校名を変更して現在に至っているのはご存じのとおりです。
 また社会や社内でも今後、英語の力が益々重要になってくるのは明らかです。