『大塩平八郎から見る江戸と大坂』

(%緑点%)「後期講座(歴史コース)」(9月〜1月:全15回講義)の第11回講義の報告です。
・日時:12月10日(火)am10時〜11時50分
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:大塩平八郎から見る江戸と大坂
・講師:薮田 貫 先生(関西大学教授・大塩事件研究会)
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**大塩平八郎[略年譜]**
・1792年(寛政五)〜1837年(天保八)
・江戸後期の大坂東町奉行所与力で陽明学者。号は中斎。代々続く与力の家。
・与力在職中、三大功績−[キリシタンの弾圧、汚職の役人を処断、破戒僧数十名を遠島]
・1830年(文政13=天保元年)38歳、与力を辞める。養子格之助に与力職を譲り、家塾「洗心洞」(与力時代に開設)で教学と著述に専念。
・1834年(天保五)、『洗心洞箚記』(せんしんどうさつき)を著す。
・1837年(天保八)大塩平八郎の乱。(享年45歳)。

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(%エンピツ%)講義の内容
*右は、薮田先生の著書『武士の町 大坂』(中央公論新社、2010年)です。
1.大坂は「武士の町」
とりわけ江戸時代の大坂を「町人の町」と言われるが、城下町は「武士の町」である。大名をはじめとする武士が領主として民衆を支配し、治者として民衆と向き合ったのが江戸時代の政治社会の基本的な姿である。
江戸時代の大坂の武士人口は?(大坂の総人口約40万人)
司馬遼太郎(文豪):200人、大谷晃一(大阪学の権威):500人、脇田修(近世・歴史家):1000人〜1500人、渡邊忠司(大阪市史編纂所):1万人、薮田貫:8410人
◆薮田先生の試算
・武士の人数を、「武鑑」(武士の紳士録)から数え上げ、江戸や地方から来た武士が家族を伴っていたかどうか、に注目した。
・与力・同心・蔵番など:3000人、城代・定番など1000人、加番800人、大番衆2000人、東・西・川口奉行150人、六役奉行及び目付480人、谷町・鈴木町代官80人、蔵屋敷900人・・・総計8410人(いずれも家族を含む)

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2.大塩平八郎をめぐる人々
(1)与力として
・与力は、代々続く土着の役人。出世はなく与力は一生与力の身分のまま。町与力は東西奉行は30人ずつ、計60人。部下である同心は、東西で100人で、大阪の町の行政・裁判・警察(治安)の維持にあたった。
・上司の大坂城代、町奉行というのは、転勤のエリート武士。通常、2〜3年で転勤し次のポストに移っていく。家族同伴。→現場の与力が、日常の仕事はほとんどやってくれる。
◆横行する賄賂…町人たちに付け届けや礼銀を要求するのは、役人にとって当たり前のことで、賄賂を受け取って捜査に手心を加えることも公然と行われていた。⇔大塩平八郎は清廉潔白な与力で、当時、有名であった。
(2)洗心洞主人として
・「知行合一」の教えを説く。“知ることは、すなわち行動が伴われなければならない”。
・林良斎の大塩批評…「中斎(大塩)は平生精神極めて盛んにして、時々昼夜寝ざるもの十余日、精神故(もと)の如し。常には酒を飲まず、飲めばすなわち斗半をつくして平日に異なる無し。飯は一度に十杯位、およそ路を行くこと30里。夜は常に八ツ(午前2時)に起きて天象を観る。門人を召して議論するに、冬日といえども四面戸を開いて座す。門人皆堪えず。」

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3.大塩平八郎の乱
(1)天保の飢饉
1833年〜1836年(天保四〜七年)、全国的な天候不順、各地で多くの餓死者。米不足が深刻になるのを見て、大塩は奉行所へ対策を進言する。→奉行所の無策。
(2)大塩の檄文(げきぶん)…*右上が檄文(複写)です。
1836年12月に檄文彫(檄文を印刷)…檄文とはわからないように、版木を四段に分けて彫り上げ、完成したものをつなぎ合わせて印刷するという周到な準備。檄文の総文字数は2000字以上。
★内容★
・「小人に国家を治しめば災害並び至る」…「この頃米価が高値になり、市民が苦しむに関わらず、大坂の奉行並びに諸役人は、私利私欲のために、得手勝手の政道を致し、江戸へ回米之世話を致し…。下民を悩まし苦しめ候諸役人を誅殺」(目的①)
・「大坂の金持ちどもは、年来諸大名に金を貸付候、その利子の金銀並びに扶持米など莫大に取り、未曽有の裕福な暮らし。…大阪市中金持の町人どもを誅殺」(目的②)
(3)蔵書を売り払い、窮民に分け与える
1837年(天保八)2月、大塩は蔵書を売り払って668両(1億3千万円)を得、これを窮民1万戸に金一朱ずつ分配。
(4)決起(1837年(天保八)2月19日)
・門人の一人が変心し、密訴したため、予定を数時間繰り上げて(午前8時頃)挙兵。「救民」の大旗をかかげて、大筒を引き、天満一帯を焼き払いながら、船場に進出(その数約300人)、鴻池その他の豪商を襲って、その金や米を貧民に分配。同日、午後4時頃には大坂城代・町奉行により鎮圧される。翌日の夜まで火災は続き、大坂市中の五分の一を焼失。
・逃亡した大塩は、40日後の3月27日、幕府側に隠れ家を襲われ、養子格之助とともに自殺。→1ヶ月余の潜伏生活…何かを待っていた!(老中あての書状の返信?)
(5)建議書
・決起予定の前日、大塩は幕府の老中宛に書状を送った。もし、決起が不発に終わっても心ある老中が改革を行なってくれるかも知れない…という願いをこの書状に託していた。←この書状は、何者かによって山中に捨てられ、幕府の中枢には届かなかった。