『平家物語を読む』〜以仁王と源頼政〜

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全13回講義)の第10回講義の報告です。
・日時:12月19日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:『平家物語を読む』〜「高倉宮以仁王と源頼政」〜
・講師:四重田 陽美 (よえだ ひろみ)先生(大阪大谷大学教授)
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*「以仁王と頼政」時代背景*(平家物語【巻四】)
〈治承4年(1180)1月〜5月〉.
・治承4年2月:高倉天皇は病気でもないのに譲位させられ、安徳天皇が三歳で践祚。(これは、平清盛の権力におごった強引な振る舞いによるもの)
・4月9日:源頼政、密かに訪ね来て、以仁王に平氏追討の令旨を請い、源行家が各地の源氏に伝える。→(5月10日に、伊豆北条の流人頼朝に令旨伝えられる)
・5月15日:平家に謀反の計画が漏れ、清盛の軍兵、以仁王の御所を攻める。宮は女装して三井寺の逃れる。(16日、頼政、三百余騎で三井寺へ)、(その頃、三井寺は、比叡山と奈良の興福寺に協力を促す書状を送る)
・5月23日:(宇治川合戦)平等院に逃れていた以仁王、頼政を、平家二万余騎が攻め、頼政以下自害、宮は流れ矢で死す。→(5月26日、平家、三千余騎で三井寺を攻め、堂舎を焼く)

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(%エンピツ%)講義の内容
○『平家物語を読む』〜「高倉宮以仁王と源頼政」〜
(あらすじ)
1.以仁王の決心(『平家物語』第四の巻「源氏揃」より)
■「後白河上皇の第二皇子の以仁王は、才学もすぐれていたのに、継母建春門院(清盛の妻時子の妹)の妬(ねた)みで、三条高倉に政治とは無縁に歌を詠んだり笛を演奏したりして不遇の日々を過ごしており、治承四年(1180)には、三十歳になっていた。…ある夜、ひそかに源頼政が申し上げた話は、恐ろしい。《謀反を起こして、平家を滅ぼし、皇位について、鳥羽に幽閉されている父上の後白河法皇をお助けなさい。合戦の折には諸国に潜伏している源氏を喚起します》。以仁王は躊躇したが、すぐれた人相見(少納言伊彦)が《即位なさるべき人相です。》と言った上に、頼政もこのように言っていたので、【これは天照大神のお告げであろうか】と反乱をご決心なさった。源行家を、令旨のお使いとして東国へ下された。」
(注)合戦は、後白河法皇が出す院宣、皇太子や親王が出す令旨が必要。


2.以仁王逃走(『平家物語』第四の巻「競(きおう)」、「橋合戦」より)
・以仁王謀反の報告を受けた清盛は、すぐさま福原から都に上り、「以仁王を捕縛し、土佐へ流してしまえ」と命令。→計画の発覚を知った頼政は使者を出して、「すぐに園城寺(三井寺)に避難して下さい」と以仁王に勧める。
■「以仁王は、女装で屋敷を抜け出した。見知らぬ山路を一晩中進むが、不慣れで、足から出る血は地を染めて紅のようである。こうして、夜明け前に、三井寺に入られた。」…「5月16日の夜、頼政、嫡子信綱以下、一族郎党300余騎は、屋敷に火を付け焼き上げて、三井寺に参上。」
■「5月23日の夜明け前、以仁王は、《この三井寺だけでは平家に勝つことは叶わないであろう。延暦寺は心変わりしたし、興福寺の返事もまだ届かない。》と言って、三井寺を出て、奈良に移動することになった。」…「以仁王は、三井寺から宇治の間で、六度も落馬された。これは昨夜一睡もできなかったせいだというので、休憩するために平等院にお入りになり、敵の攻撃を防ぐために宇治橋の橋板を三間分(約6m)を取りはずした。→そこへ、平家軍二万八千騎が、宇治橋のたもとに押し寄せた。」
(注)①園城寺(おんじょうじ)[滋賀県大津市にある寺院。天台寺門宗総本山。正式には長等山(ながらさん)園城寺。一般には「三井寺(みいでら)として知られる]②平等院は園城寺(三井寺)の別院。


3.宇治平等院の戦い(『平家物語』第四の巻「宮御最期」(みやごさいご)より)
頼政最期
「川を渡った大軍平家方は、平等院に攻め入り、手勢を入れかえ入れかえ戦った。その混乱にまぎれて頼政は以仁王を奈良へ逃がし、自身は一族と宇治に留まり、平家の進軍を食い止めるために戦った。70歳を過ぎた頼政は、左の膝口を射られ、重傷を負った。もはやこれまでと思い心静かに自害しようとしたところ、敵が襲いかかってきた。頼政の次男兼綱が父を逃げのびさせようと防ぎ戦ったが、平家軍十四、五騎に囲まれ討たれてしまった。…頼政は、家来の渡辺唱(となう)に、《私の首を討て》と命じたが、唱は生きている主人の首を討つようなことの悲しさに、涙をぽろぽろ流して、〝ご自害なさいまして、その後で御首を頂戴しましょう”。頼政は太刀の先を腹に突き立て、うつむきざまに刀で貫かれてなくなられた。その首は唱が取って、石にくくって、宇治川の深いところに沈められた。」
「埋木の 花さく事も なかりしに みのなる果てぞ かなしかりける」(頼政・辞世の歌)
(意訳)(うもれぎの花が咲くこともないように、わが人生も世に埋もれ、はなやかに過ごすこともなかったのに、今こうして最期をとげる、わが身のなれの果ては本当に悲しい)
以仁王最期
「平家の飛騨守景家は、老巧な武士だったので、この混乱に紛れて以仁王は奈良へ逃亡していると考えて、戦をしないで、軍勢500余騎で追跡した。思った通り、三十騎ばかりで奈良へ逃亡中の以仁王に光明山寺の鳥居の前で追いつき、矢を雨が降るように浴びせると、誰の矢かわからないが、以仁王の左脇腹に矢が一本刺さったので、馬から落ちてしまい、首を取られてしまった。お供の僧兵たちも全員討死した。」