官兵衛・村重と有岡城

日 時 平成26年1月17日(金)
場 所 宝塚中央公民館
主 催 宝塚やまびこ友の会
 「信長公記」によれば荒木村重が織田信長に逆心を企てたとの
情報が寄せられたのは天正6年(1578年)10月のことで、信長は
直ちに出陣したと記録されています。
 その3年前に長篠において武田の騎馬軍団を完膚なきまでに
やぶった信長は、中国攻略のため安土へと歩を進めます。
 当時中国へは山陰から明智光秀が、山陽から羽柴秀吉が進攻しつつあり、摂津の備えは村重が担っていましたが、この謀反はいよいよ毛利氏も調略に動き出したことに起因しているようです。
 これに対して村重の説得に乗り出したのが黒田官兵衛で、官兵衛は姫路に生まれ、御着の小寺氏の家老をしていましたが、信長・秀吉の人柄にふれ織田方に味方していたものです。
 しかし村重の居城・有岡(伊丹)城に入城した官兵衛は逆に捕われの身となり、救出されたのは1年後の有岡城落城の時で、この頃村重はすでに有岡城から尼崎城へ脱出(その後、毛利へ)していたため、城主を欠いた事と織田方の調略もあって落城したものです。
 この時信長は説得に出向いた官兵衛が帰ってこないので裏切ったと思い、人質で官兵衛の子の松寿丸(後の黒田長政)を殺すよう秀吉に命じますが、もうひとりの軍師・竹中半兵衛が官兵衛を信じ、領国にかくまって事なきを得ています。(写真絵は村重:ネット)