女傑と呼ぶにふさわしい巴御前

日 時 平成26年2月25日(火)
場 所 宝塚男女共同参画センター
主 催 まなびの会
 長編「平家物語」にすら630字余りしか登場しない巴御前の
人生についてです。
 巴は木曽義仲の愛妾として知られ、「義仲最期」では「色白く、
髪長く、容顔まことに優れたる強弓精兵、一騎当千の兵者」と
記されています。
 巴は、義仲が幼少のみぎり養育(武芸や学問)した中原兼遠の娘で、共に育った女人ですが、木曽川のよどみである巴渕に住む竜神の化身であるとの言い伝えも残されています。
 義仲は父が義平に夜襲をかけられて戦死したことから、信濃にのがれ中原氏に育てられました。
 そして義仲24才の時、後白河法皇の第2皇子・以仁王の令旨を得て平家追討に立ち上がります。
 巴も義仲と共に出陣し、倶利伽羅峠において10万の平家軍をわずか5万でもって打ち破り、上洛をはたします。
 この時の「田単火牛の計」こそ、巴が具申したものと伝えられています。
 しかし戦いに利あらず、やがて義仲は鎌倉軍に破れて栗津で戦死し、巴は東国に落ちのびます。
 その後の巴は「源平盛衰記」によれば、鎌倉に連行され和田義盛の妻となって豪傑・朝日奈三郎義秀を生みますが、義盛・義秀は和田合戦で戦死したため、出家して91才まで生きたとされています。