「法隆寺再建をめぐる政治情況と五重塔塔本四面具」

(%緑点%) H26年前期講座(歴史コース)の第2回講義の報告です。
・日時:3月18日(火)am10時〜12時10分
・会場:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:法隆寺再建をめぐる政治情況と五重塔塔本四面具
・講師:山岸 公基先生(奈良教育大学教授)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.法隆寺の五重塔
わが国最古の法隆寺五重塔の初層には、「塔本四面具」よばれる塑造の群像を安置する。(国宝)
【法隆寺関連年表】
・舒明元年(629)…舒明即位。山背大兄王、「肝稚」を理由に皇嗣争いに敗れる。
・皇極二年(643)…斑鳩宮焼亡。山背大兄王、子弟・妃妾とともに法隆寺で自殺。
(*法隆寺のスポンサーが滅亡する。)
・天智九年(670)…法隆寺、一屋も残さず焼失。←(若草伽藍と考える)
・朱鳥元年(686)…天武崩御。持統、臨朝称制。
・持統四年(690)…持統天皇即位。→文武元年(697):軽皇子皇太子となり、同年即位(文武天皇)→大宝二年(702):持統天皇崩御→慶雲四年(707):文武天皇崩御。元明天皇即位。
・和銅三年(710)…平城遷都。
・和銅四年(711)…塔本四面具、中門金剛力士像の造立。(再建法隆寺の完成)

2.持統朝〜奈良時代前半の政治情況(皇嗣継承問題)
(1)田村皇子(舒明天皇)と山背大兄王の皇位継承(*右の資料を参照)
・推古天皇の皇太子だったという認識が確立していたとみられる聖徳太子の皇子であった山背大兄王が皇位につけなかった最大の理由は、「肝稚し」(年若く未熟である)ということにあり、それが法隆寺における山背大兄王ら上宮王家の滅亡という悲劇の遠因となった《皇極二年(643)、蘇我入鹿派遣の軍兵に囲まれた山背大兄王は、子弟・妃妾らとともに斑鳩寺(すなわち法隆寺)で自殺。(『日本書紀』皇極二年十一月条)》…推古朝後の皇位継承のターニングポイント。(聖徳太子は、現在の皇統につながらない。)
・上宮王家という檀越を失った法隆寺は、天智九年(670)には一屋も余さず焼失。
(2) 法隆寺と天武天皇、持統天皇
①やや冷淡な天武天皇
・天武八年(679):法隆寺の食封300戸を停止。←経済的な裏付けがなくなる。
②積極的な後援の持統天皇
・持統七年(693);仁王経を諸国に説かしむ。法隆寺に経台一・蓋一・帳一を施入。
・持統八年(694):金光明経を、法隆寺・大官大寺に一部ハ巻を置く。
持統天皇にとって法隆寺が重要だったのは、山背大兄王の悲劇を語り継ぎ蘇我入鹿の横暴を憤ることが、皇太子草壁皇子の年若い遺児・軽皇子に山背大兄王のような悲劇を二度と繰り返させてはならない、との輿論を醸成するのに有効だったからではないのか」、という推論が導かれる。
・天武天皇(40代、在位673−686年)→持統天皇(41代、690−697年)→文武天皇( 軽皇子、15歳で即位し、25歳で崩御。42代、697−707年)→元明天皇(軽皇子の母、43代、707−715)→首皇子(後の聖武天皇、当時7歳)

3.五重塔塔本四面具(*右は、塔本四面具の図像プログラム)
〇日本古代の塔基安置仏像は四方四仏像と仏伝像とがほとんど占めるが、法隆寺五重塔塔本四面具は「法隆寺式仏像」といわれるほど異色である。
・(北面)涅槃像土…釈迦の涅槃の場面
・(西面)分舎利仏土…釈尊の遺骨を分配の場面
・(南面)弥勒仏像土…弥勒の浄土を表す場面
・(東面)維摩詰像土…維摩経に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面

涅槃像土(五重塔塔本四面具の北面)(右を参照)
*釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名。
・北面は釈迦の涅槃(ねはん)を表している。右脇を下にして横臥する釈尊を中心に菩薩、比丘(びく)その他五十二の生類を代表する鳥獣鬼神の像を並べている。
・塑像の大きさは、小さく、高さ約50cm。しかし、飛鳥時代の仏像として、観る価値のあるものです。(山岸先生)

維摩詰像土(東面)(*右を参照)
・慶雲二年(705)、慶雲三年(706):藤原不比等、城東第で維摩会の開催(『扶桑略記』)
*中臣鎌足と藤原不比等が背景にあったとみる。(山岸先生)
・聖武天皇の外曾父・中臣鎌足ないし外祖父藤原不比等との関連→聖徳太子以降の在家仏教実践者の代表として維摩経信仰の保護育成に努めた。
・「 かくして塔本四面具には、首皇子、のちの聖武天皇の護持を祈念しつつ、その後ろ盾としての藤原氏をも顕彰するという意味がひそんでいる。」…法隆寺五重塔塔本四面具制作に、維摩詰像土を主題の一つに選ぶことに、首皇子の外戚としての藤原氏への強い配慮が見て取れる。
塑像
・塔本四面具の現存・塑像はおおむね和銅四年(711)の造立。
・土をこね、盛り上げて造った像を塑像といい、この技法がわが国に伝えられたのは、七世紀中頃と思われる。三層構造…骨格としていくつかの心木を組み上げ、藁縄や麻緒などを巻き付け、荒目の土を盛りつけ、中土を盛り、仕上げ土を盛り上げ細部を仕上げする。表面のデリケートな起伏凹凸、衣服の複雑な状態をきわめてリアルな表現で、小さいながら繊細ですぐれた作品である。
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***あとがき***
・持統朝〜奈良時代前半の法隆寺を、当時政治上の最重要課題であった皇嗣問題とに関係という、従来とりあげられることのなかった側面から照射し、特に五重塔塔本四面具の図像プログラム新たな解釈を提示。(山岸先生『密教図像』第26号)
・法隆寺再建・非再建問題は、聖徳太子発願の法隆寺(斑鳩寺)は若草伽藍跡であり、『日本書紀』に記された天智九年の火災で焼失し、その後、現・西院伽藍の地に再建られた、とみるものです。(山岸先生の立場)