日本近現代史『第二次世界大戦』〜満州事変、日中戦争から第二次世界大戦へ〜

(%緑点%)H26年前期講座(歴史コース)の第3回講義の報告です。
・日時:3月25日(木)am10時〜12時10分
・会場:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:第二次世界大戦
・講師:原田 敬一先生(佛教大学教授)
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**原田先生の「日本近現代史」は、今回の講義で5回目です。
第1回(H24年3月):「日清戦争」(1894〜1895年)
第2回(H24年9月):「日露戦争」(1904〜1905年)
第3回(H25年4月):「第一次世界大戦」(1914〜1918年)
第4回(H25年9月):「第一次世界大戦後の世界」〜日本の分岐点〜
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(%エンピツ%)講義の内容
1.満州事変(1931年)
・1931年(昭和6)9月、関東軍は、奉天近郊の南満州鉄道を爆破(柳条湖事件)。戦争のきっかけをつくり、奉天・長春を占拠。→政府(若槻内閣)は、不拡大方針を決めたが、関東軍はこれを無視して、1932年、旧清国の廃帝・溥儀(ふぎ)を執政(のちに皇帝)とし、満州国を建国
◇国際連盟、リットン調査団を派遣⇒「満州における中国の主権を認め、満州国の独立は否定。しかし、満州国における日本の権益には理解を示し、妥協的な報告書。」
日本、国際連盟脱退(1933年3月←リットン報告書を承認(国際連盟総会)(満州国を不承認、日本軍の撤退を求める勧告案)。

2.日中戦争(1937年〜1945年)
「盧溝橋事件」…1937年(昭和12)7月、北京郊外で日本軍と中国軍との偶発的な武力衝突から日中戦争が始まる。→宣戦布告なき戦争(当時は、「北支事変」とよび、宣戦布告なし。戦火が長江以南に及ぶと「支那事変」とよんだ。)…当初は不拡大・早期解決の方針であったが、火種が華中に飛び火した。
南京事件(1937年12月)…日本軍は、非戦闘員を含む多数の中国人を殺傷。((注)10数万人から20万人と推定される。)

★★「国民政府を対手とせず」政府声明★★(1938年1月16日)(*右上の資料を参照)
「日本政府は、南京を陥落させると、「爾後国民政府を対手(あいて)にせず」と声明し、外交交渉の道を自ら閉ざした。」
「中国、屈服せず」…重慶を首都とした国民政府(蒋介石)は共産党(毛沢東)と「抗日」で協力して、米・英・ソ連の援助でねばり強く抗戦をつづけ、日本は長期戦の泥沼に入り込んだ。
(注)中国とドイツ…中国軍が強かったもう一つの理由は、ドイツ。1938年5月ドイツが満州国を承認して日本と手を組むまでは、ドイツは中国に対する最大の兵器・武器供給国であり、軍事的な援助(軍事顧問団)も行っていた。

3.第二次世界大戦(1939年〜1945年) 
◇第二次世界大戦の始まり
・1939年9月、ドイツ軍、ポーランドへ進撃。→英・仏がドイツに宣戦布告したことで、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まる。
・日本(阿部信行内閣)は、欧州戦争に不介入を声明。米国は、欧州戦争に中立宣言。
日本の動き
[1940年]
9.23-北部仏印(北ベトナム)進駐⇔米国、鉄鋼・屑鉄の対日輸出禁止(経済制裁で日本の南進を阻止)
9.27-日独伊三国同盟調印(ベルリン)
[1941年]
4.13-日ソ中立条約調印(モスクワ)
7.23−日本軍、南部仏印(南ベトナム)に進駐⇔米国、在米日本資産凍結。 対日石油の全面禁輸
★★「帝国国策遂行要領」★★(1941年11月5日御前会議)(*右上の資料を参照)
「帝国ハ自存自衛ヲ完フシ大東亜ノ秩序ヲ建設スル為此ノ際英米蘭戦争ヲ決意シ…武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完璧ス」(日本は、南部仏印進駐によって、対米英開戦の方向に大きく舵を切った。)
ハルノート(1941年11月26日ハル米国国務長官の覚書)
日本に対する要求ー「中国・仏印からの無条件全面撤退、汪兆銘政権の否認、中国における諸権益の放棄」

4.アジア・太平洋戦争
日米開戦
[1941年]
12.1-御前会議、対英米蘭開戦を決定
12.8-日本時間午前2時15分、日本陸軍、マレー半島のコタバルに上陸開始。同午前3時25分、日本海軍、ハワイ真珠湾空襲開始。
12.8-米英両国に宣戦の詔書発表。12.8-米英、対日宣戦布告
12.9-国民政府、対日独伊宣戦布告
12.11-独伊、対米宣戦布告
★★「大東亜政略指導大綱」(1943年5月31日御前会議)(*右上の資料を参照)
・従来のスローガンである「東亜新秩序」から拡大されて「大東亜共栄圏」と命名。北部仏印(現在の北部ベトナム)に進駐、武力南進路線を実行に移す。
戦局の転換(連合軍の反攻)
・ミッドウェー海戦(1942年6.5〜6.7)と日本軍、ガダルカナル島撤退(1943年2.1〜2.7)における敗北
・レイテ沖海戦(1944年10.24)
戦争終結
[1945年]
3.9〜3.10-東京空襲
4.1-米軍、沖縄本島に上陸/6.23守備軍全滅
7.26-対日ポツダム宣言発表
8.6-広島に原爆/8.8ソ連、対日宣戦布告/8.9長崎に原爆
8.14-御前会議、ポツダム宣言受諾を決定。中立国を通じて連合国へ通知。
9.2-降伏文書に調印(東京湾ミズリー号)。

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**まとめ**
○日米開戦までの経緯をみると、日中戦争の拡大・長期化から導かれた。
日本の戦争目的(変化している)
暴支膺懲→東亜新秩序→自存自衛→大東亜共栄圏
(注1)暴支膺懲(ぼうしようちょう)…暴れる支那(中国)をこらしめる。
(注2)東亜新秩序…日満支(華)三国が連帯して東亜新秩序を建設。南京に新政府(汪兆銘政権)。
(注3)自存自衛…日中戦争を早く終わらせるため、フランス領インドシナ(仏印)への進駐を計画。東南アジアの資源を獲得し、自給自足圏をつくろうとした。
(注4)大東亜共栄圏…満州・華・タイ・ベトナム・ラオス・ビルマ・フィリピン・、ビルマ・マライ・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベスを含む。独立の支援(フィリピン・ビルマ)、経済協力、重要資源の供給源などを目的。
北京大学教授 胡適 「日本切腹中国介錯論」(1935年)
・胡適(こてき)は、1935年の時点で1945年までの歴史の流れを言い当てている。
「中国は、米国とソ連の力を借りなければ救われない。日本が中国に対して思うままに振舞えるのは、米国の海軍増強とソ連の第二次五か年計画がいまだに完成していない(日本は海軍・陸軍とも豊かな軍備を持っていた)。日米戦争や日ソ戦争が始まる前に、日本は中国と戦争を始めるはずだ。米国もソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。…米国とソ連をこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年負け続けることでしょう。(中略)満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけこむ機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米及び香港、フィリピンが切迫した脅威と感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによってせまってくる。…米ソ両国と衝突する日本は、いずれ自壊の道を進み、中国は数年の辛苦を我慢してその時を待てば、「切腹」する日本の「介錯人」となるだろう。日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」という八字にまとめられよう。」
・胡適は1941年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行なったときに駐米大使としてワシントンにいました。
*参考文献:『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著、朝日出版社)