黒田官兵衛〜伝説に彩られた生涯〜

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(%緑点%)前期講座(歴史コース)の第4回講義の報告です。
・日時:4月8日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:黒田官兵衛
・講師:天野 忠幸先生
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(%エンピツ%)講義の内容
1.黒田官兵衛の生涯(1546年〜1604年)
右は、如水居士画像(崇福寺蔵・福岡市)で、濃い三日月眉、大きな目、頬の黒子などの容貌や膝を立てた姿勢など、写実的に描いてある。
【播磨小寺時代】(小寺姓)
・1546年(天文15年)、黒田家家譜によれば、姫路城代の小寺職隆(こでら もとたか)の長男として生まれる。官兵衛の幼名は万吉、諱(いみな)は初め、祐隆(すけたか)、のちに孝高(よしたか)。隠居後は、如水と号す。当時の姫路城は小寺氏がおさめる御着城の支城で、城というより砦。
・織田信長との出会い(29歳)(1575年)
・信長の家臣羽柴秀吉と直接関係
・荒木村重に幽閉(32歳)(1578年)
【播磨黒田時代】(黒田姓)
・羽柴秀吉の家臣へ→幽閉されてから1年後、黒田に復姓。
・蜂須賀正勝と共に毛利氏との外交を担当。
・本能寺の変(1582年)
【豊前時代】
・九州攻めの功績で豊前6郡(中津)12万石を与えられる。(41歳)(1587年)
・長政に家督譲与(隠居)(43歳)(1589年)
・関ヶ原の戦い(1600年)
【筑前時代】
・長政に筑前国52万石を与えられる。…関ヶ原の功績
・慶長9年(1604)逝去(59歳)

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2.伝説に彩られた生涯-秀吉の天下取りを支えた稀代の軍師?
(事例を抜粋)
信長への服属
尾張の織田氏、安芸の毛利氏のいずれにつくべきか、主君小寺政職(まさもと)は迷っていた。大方は毛利氏につくべきという意見だったが官兵衛は説き伏せて信長と会見。→『信長公記』によれば荒木村重が、迷う小寺政職や播磨武士を説得。
秀吉への献策
*備中高松城の水攻め
1582年(天正10)4月の備中(岡山県西部)高松城の攻略戦で、低湿地帯に囲まれた城を、周辺の川をせき止めて、堤防を築き、せき止めた水を引き入れて城を水没化させる作戦。→確認できる資料がない。官兵衛は、堤防工事を指揮。
*中国大返しで天下取りを進言
1582年6月3日、高松城で毛利軍と対峙する秀吉軍に、凶報。主君信長が本能寺で光秀に討たれるという。茫然自失の秀吉軍勢にあって、官兵衛は「天下取りを進言」。→官兵衛は、「主君を討った光秀には天罰が下る、信長の息子は無能で諸大名に侮られる、その諸大名の反乱を秀吉が静めたならば、天下を獲れる。(そんなにすごいことを言っているのではない)。

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3.黒田官兵衛と荒木村重
*右は、村重の肖像(『太平記武勇伝』江戸時代・歌川国芳作、伊丹市立博物館蔵)です。信長と村重が初対面した時、信長が饅頭を刀の先に刺して差し出すと、村重は平然と大口をあけて食ったという。
(1)織田信長への服属
天正元年(1573)、信長は圧倒的な不利な状態【織田VS義昭・本願寺・朝倉・浅井・三好・武田】。村重は義昭方の茨木城主和田氏を滅ぼし信長方へ→信長は喜び.義昭追放を決行(現在、事実上の室町幕府滅亡)。信長は村重に摂津一国の支配権を認める。
★命令系統は、「織田信長−荒木村重−小寺政職−小寺官兵衛」
(2)信長・秀吉の横暴
天正5年(1577)、羽柴秀吉が中国方面軍司令官に昇進…「中国攻め」。播州の平定は村重の功績が大きい。秀吉の非戦闘員の虐殺は播磨武士に恐怖よりも失望・怒り。(伊勢長嶋、越前の一向一揆)
(3)荒木村重の挙兵
天正6年(1578)10月、荒木村重が挙兵(信長に離反)。12月、信長は有岡城を総攻撃したが敗北、信長は持久戦へ。…村重の説得に単身有岡城にのりこんだ官兵衛は拘束される
(4)有岡城に幽閉された官兵衛
村重はなぜか官兵衛を殺さず、幽閉するだけにとどめた。→1579年、1年もの籠城の末、村重はひそかに有岡城から脱出(有岡城陥落)。官兵衛は家臣らによって地下牢から救出された。
★助命された官兵衛…戦国時代の外交官は殺害されるのが常識(ヨーロッパでもナポレオン以前は、外交官は殺されている)。村重は信長と違い人質を殺害せず。
☆1年間がんばりぬいた官兵衛は、秀吉に評価された(誠実・説を曲げない)。
☆官兵衛は、その後、村重一族を再雇用して、恩(助命)を返している。
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***あとがき***
○黒田官兵衛の誤解と再評価
・官兵衛は軍師というより外交官、交渉人(ネゴシエ−ター)で評価される。
*(注):戦国時代に「軍師」という史料は出てこない。史料にあるのは「軍配者」(陰陽道、占星術、易学をする者で、味方を奮い立たせて励ます役割)。軍師が史料に出てくるのは江戸時代(『三国志演義』がヒットし軍師孔明のイメージが投影)。
・秀吉より与えられた中津12万石は冷遇ではなく、妥当な報酬。(蜂須賀氏は秀吉の古い家臣で阿波18万石)
○官兵衛の遺言
「神の罰より主君の罰をおそるべし、主君の罰より臣下百姓の罪をおそるべし」
(要約)(神の罪は祈りで、主君の罪はお詫びで回避可能。臣下百姓の罪は国家滅亡。…有岡城の経験?村重の籠城が長期化(1年)、尼崎・花熊が1年8か月籠城できたのは、神戸・阪神間の百姓が村重を食料などを支援し信長に抗戦。(小田原城はわずか3か月で落城と対比)。
〇9月初旬、「黒田官兵衛」の公開講座(天野先生他)(会場:狭山池博物館)を行う予定です。