「古市・百舌鳥古墳群の意味するもの」

(%緑点%)前期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:4月15日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:「古市・百舌鳥古墳群の成立の意味するもの」
・講師:白石 太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)
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*白石先生の講義は、今回で5回目になります。
・「倭国の成立はいつか」(2012年4月)
・「邪馬台国連合の成立」(2012年10月)
・「邪馬台国連合から初期ヤマト政権」(2013年5月)
・「考古学から見た初期ヤマト政権」(2013年10月)
(要約)【先進文物(朝鮮半島の鉄資源や中国鏡など)の入手ルートをめぐる「畿内・瀬戸内連合軍⇔玄界灘沿岸」の争い→邪馬台国連合の成立→狗奴国との争い→ヤマト政権には、近畿中央部の勢力をはじめ、日本列島各地の政治勢力が参加。…3世紀中葉すぎから4世紀中頃にかけて、墳丘の長さが200mを超える大型前方後円墳が六基が奈良盆地東南部に営まれた。初期ヤマト政権と呼ばれる政治連合の盟主の墓であり、同一の古墳群に代々営まれるわけではなく、いくつかの有力な政治集団から出て、交替でその地位につくといった形の王位の継承が行われていたと考えられる。】


○畿内における大型古墳の分布(右の資料を参照)
・大型古墳は、畿内南部(大和・河内・和泉)の地域に数多く営まれる。
・隔絶した規模をもった古墳がヤマト政権の盟主の墓と考えられる。
「古墳時代を通じて、墳丘長200m以上の大型前方後円墳が数多く営まれたのが、畿内南部の〈大和・柳本古墳群、佐紀古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群など)であり、北では、わずかに高槻市・茨木市の三島野古墳群の太田茶臼山古墳が一基みられるにすぎない。


○王墓の移動
・3世紀中葉〜5世紀前半、それぞれの地域で隔絶した大きい古墳が営まれる。
「大和・柳本古墳群」(3世紀中葉〜4世紀中葉):箸墓−西殿塚ー外山茶臼山−メスリ山−行燈山−渋谷向山⇒「佐紀古墳群」(4世紀中葉〜4世紀末):宝来山−五社神⇒「古市・百舌鳥古墳群」(4世紀末〜5世紀前半):仲ツ山−上石津ミサンザイ−誉田御廟山−大仙陵
・5世紀末頃から、古墳はだんだん小さくなっていく。


○大阪南部になぜ王墓が移動したか?
◆四世紀の東アジアの国際情勢
・ヤマト王権が成立した時期の東アジアの動向
「中国においては魏・呉・蜀の三国時代が崩壊した後、北部では晋(西晋)が建国(265〜316年)。しかし、四世紀に入ると北部につぎつぎと遊牧民族が侵入して、五胡十六国とよばれる分裂時代が到来する。…朝鮮半島では、高句麗が南下策。313年楽浪郡と帯方郡は滅亡。百済と新羅が建国。
・百済と倭国が同盟を結ぶ
◆渡来人の来住と列島の技術革新
・「鉄原料」…その大半を朝鮮半島に依存する状態が続いていた。
・「韓式土器の分布」…朝鮮半島から持ち込まれた土器が西日本を中心に4世紀後半から5世紀にかけての遺跡から出土し、この時期に多くの渡来人が来住と考えられる。興味深いのは、大阪府が圧倒的に多く、その中でも河内地域に特に集中している。
・「須恵器生産」…大阪府の陶邑(すえむら)(堺市南部とその周辺)が列島の須恵器生産センター。
・「馬と馬具、金工技術」…朝鮮半島から馬と馬具がもたらされる。(意外にも、列島には四世紀まで馬はいなかった。)
・石上神宮「七支刀(しちしとう)の銘文」(国宝)…百済との国交樹立(『日本書紀』神功紀五十二年九月条(372年))


○古市・百舌鳥古墳群の成立の意味するもの
*白石先生説*
「ヤマト政権の本来の基盤は、大和川流域の大和・河内であったと考える。古市・百舌鳥古墳群への王墓の移動は、ヤマト・河内の政治連合政権内での盟主権(リーダ)の移動にほかならなかった。…東アジア情勢の大きな変化が、ヤマト王権のなかででも実際の外交や交易を担当していたと思われる大阪湾岸の河内の勢力が、大和・河内連合の中でも大きな発言力を持つようになったと予想される。こうした東アジア情勢の大きな変化が、ヤマト王権の内部で盟主権の移動をうながしたのではないか、というのが私の考えです。」

(注1)「ヤマト政権による河内への渡来人の集住、大規模干拓と生産拠点化などの諸政策は、河内の重要性を高め、王権で枢要な地位を占める豪族が河内へ移ってきた。」
(注2)「河内に基盤をおく最初の王である応神(おうじん)について、大和の王家と婚姻関係を結び、入り婿の形をとることによって、その王権継承の正統性について、大和・河内の首長層、さらに列島各地の首長層の承認を受けることができたのではないか。(文献史学の井上光貞氏は、応神について、入り婿の形でやまとの王家とつながっていたことを指摘されている。)」
(注2)「たんに王墓の位置を大阪平野に移動したにすぎないという説」や「新しく台頭した大阪平野の勢力が奈良盆地の勢力に代わって王権を掌握したという説(河内王朝説)」がある。