日 時 平成26年5月12日(月)
場 所 兵庫県民会館
主 催 兵庫芸術文化協会
黒田官兵衛は播磨国・御着城主・小寺家の家臣で姫路城の城代
でしたが、織田信長の「天下布武」に感銘し、小寺家を織田家支持
に導きました。(右記写真:ネット)
元々黒田家は近江の出身と言われていますが、故あって備前に
移住し、やがて目薬などで財をなした由です。
(祖先は、「宇多源氏→佐々木家」の系統とされているのだとか・・・。)
やがて黒田家は姫路に移り、廣峯神社の神主とも懇意になります。
神主は全国津々浦々を廻ることからここからかなり詳細な情報を得ていたと考えられます。
それらの情報(長篠の戦い等)を基に官兵衛は織田家支持を決意したのでしょう。
官兵衛は小寺家の会議において、今川義元は亡び、武田信玄は病死し、関東の北条氏は威勢が衰え、上杉謙信は遠国であることから、天下を争うのは安芸の毛利輝元か美濃の織田信長だが、輝元はその器量がないと説得した由です。
やがて官兵衛は小寺家の織田家支持を伝える使者として岐阜に赴き、秀吉の仲介で信長に謁見し、ますます織田信長ファンとなっていきました。
この謁見のときに信長から下賜された太刀が「へし切り長谷部」で、現在は国宝になっています。