「聖徳太子三骨一廟の創出」

(%緑点%)前期講座(歴史コース)の第8回講義の報告です。
・日時:5月20日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:聖徳太子三骨一廟の創出
・講師:上野 勝己先生(元太子町立竹内街道歴史資料館館長)
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(%エンピツ%) 講義の内容
聖徳太子御廟
大阪府南河内郡太子町にある「叡福寺」にある叡福寺北古墳には聖徳太子の御廟があり、聖徳太子本人とその母・穴穂部門人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、太子の妃・膳郎女((かしわのいらつめ)が眠っているといわれている(三骨一廟といわれる)。叡福寺周辺には、敏達天皇、用明天皇(太子の父)、推古天皇、孝徳天皇の陵もある。


1.『日本書紀』の聖徳太子薨去
推古天皇二十九年(621)二月五日紀
(要約)「厩戸豊聴耳皇子命(うまやどのとよとみみのみこと)(聖徳太子)が斑鳩の宮で薨去(こうきょ)された。(略)多くの人々の哭く声が路に満ちていた。(略)皆曰く、日月光を失って、天地既に崩れぬ。今より以後、誰をか恃(たの)まむという。その月のうちに、磯長(しなが)陵に葬る。」
(注)聖徳太子(574年〜622年)は、薨去して約100年後(『日本書紀』は720年編纂)には、完全に神格化されている。『日本書紀』には、母のこと妃のことは何も書かれていない。
●下記の3書はいずれも太子墓を一貫して「磯長」とし、埋葬についても聖徳太子のみ記している(太子没後300年間にわたって、一貫して太子墓は、「単葬墓」とされてきた)。
★『日本書紀』(奈良時代・養老四年−720年 撰)
★『上宮聖徳法王定説』(奈良時代・8世紀 撰)…【622年2月22日に薨去。墓は川内志奈我(かわちしなが)の岡にある也】
★『延喜式』(平安時代・10世紀 撰・施行)…【磯長墓 − 用明天皇の皇子、名は聖徳。在河内国石川郡。間人女王(妃)の墓は、在大和国平群郡】(注)妃の墓は平群にあると書かれている。


2.『聖徳太子伝略』 (平安時代・10世紀(992年?) 撰)
(要約)「621年2月5日、太子と妃がなくなり、太子と妃を合葬した。」
2棺合葬が記されている。

3.『聖徳太子伝私記』(鎌倉時代 法隆寺僧顕真 1238年 撰)
(要約)「太子・母(間人皇后)・妃(膳郎女)の3人を葬った。法隆寺僧・康仁が廟内を調査した。」
3棺合葬が記されている。

4.奈良〜鎌倉時代の太子信仰の動向
*右の資料を参照
・聖徳太子信仰が広がっているのがよくわかる。太子が建立した寺数が、8世紀は(7)であったものが、10世紀には(11)となり、1238年には(46)と増えている。


**おわりに**
太子信仰が浄土信仰と深く結びついて発展する時代背景の中で、寺の発展をめざした住僧らが、その時代の太子伝に記された太子墓の状況に困って、太子墓を「単葬」から「2棺合葬」→「3棺合葬」へと操作してきたのではないかと考えられる。浄土信仰に伴う阿弥陀三尊(弥陀を中心に、右に観音、左に勢至という配置)と直結させた太子墓は「三骨一廟三尊位」。「一度参詣離悪趣 決定往生極楽界」と参詣者に極楽往生を保障する霊地とされた。…太子墓の原状が単葬であったとしても、現太子墓の価値を否定するものではない。「歴史は作られる。信仰としては“あり”だが、事実とは違う」(上野先生)