縦の糸 横の糸 交わるところにある“もの”

今朝目が覚めると、なぜか中島みゆきさんの

「糸」という歌が脳裏に流れていました(%笑う女%)(%晴れ%)

(個人的には、ミスチルの櫻井和寿さんが歌う『糸』が好きです↓)

http://www.youtube.com/watch?v=KhLVbltymGE

改めて聴いてみて、本当に美しい「名曲」だと、感涙。。。

『糸』

なぜ めぐり逢うのかを
私たちは なにも知らない
いつ めぐり逢うのかを
私たちは いつも知らない

どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 ふたつの物語

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない

なぜ 生きてゆくのかを
迷った日の跡の ささくれ
夢追いかけ走って
ころんだ日の跡の ささくれ

こんな糸が なんになるの
心許(もと)なくて ふるえてた嵐の中

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かの
傷をかばうかもしれない

縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます

最後の「仕合わせ」が、作者の中島みゆきさんの

想いがつまっていると感じます。

どうして「幸せ」と書かずに「仕合わせ」と書かれたのか?

ちょっと調べてプラス、自分の主観を交えて解釈すれば、

「しあわせ」→「し合わせ」なんだと思います。

「し」というものを合わせることが「仕合わせ」です。

「し」とは「為る(する)」です。

「為る(する)」+「合わせる」・・・

つまり自分と誰か(何か)との動作(心)が

ピッタリ合うことが「しあわせ」という名前の

『めぐり合わせ』という意味のようです。

その巡り合わせのいい方を現代日本人は「幸せ」と言います。

その逆を「不幸」と言っています。

室町時代頃に「しあわせ」という言葉が出来たそうですが、

その頃には「仕合わせ」という言葉のみで

「幸せ」はなかったようです。

「仕合せが良い」「仕合せが悪い」と言っていたようです。

分かりやすい事例で申しますと、

AさんとBさんが仲が悪く、

双方がコッソリ私にいかに相手が悪いか主張して来ます。

客観的に観て私が思いますに、「どっちもどっち状態」で、

お互い“何か”のレベル(高さ)が同じだからもめるのです。

(恐らく、お互いが対立・衝突することによって、

『修行の機会(=修行の醍醐味、そして人生の醍醐味)』を

天から与えられているのだと思います。

お互いがそれぞれ、その対立で学ぶべき・変えるべきことがあるという

意味があるのではないでしょうか。。。?)

そのような状態を「し」が合っていない・・・

「仕合せが悪い」と表現していたようです。

同じ高度1万メートルのところで、

東と西、真逆から飛んで来る飛行機がぶつかるのは、

とってもシンプルな事実であります。

どちらかが気をつかって、上下左右にかわせば

衝突することがありません。

人生修行が進んで来ると、

客観的情景がだんだん見えて来て(=冴える)、

衝突を避けるように、ひょいと心の方向を変えることが

出来て来るようになります。

また避けるだけでなく、トラブルの円満解決に導くことも

出来るようになって来るようです。

更にレベルが上がると、それが自分と相手だけでなく、

人と人(第三者)にも好影響を与えることが

出来るようになって来るようです。

話を元に戻しまして・・・

元々「しあわせ」という言葉には、

いいもわるいも(善悪が)存在しなかったという感じがします。

元来の素晴らしい叡智を持った日本人たちは

所謂いい出会いもわるい出会いも

「全て自分のために起こること」

「全て自分の成長の糧になること」と

万象肯定のポジティブ思考で生きていたのではないでしょうか。

だからイチイチ「幸せ」「不幸」と

言葉を分ける必要性にかられることも

なかったのではないでしょうか。

ですので私は、

日々巡り合うあらゆるご縁と「仕合わせ」に成れるよう、

日々の修行に精進していきたいと思い、実践している次第です。

喜怒哀楽の仕合わせ、全部が善であり『幸せ』であります。

(が、これがなかなか、すんなりそう認識出来ません ーー;凹)

>縦の糸はあなた 横の糸は私
>逢うべき糸に 出逢えることを
>人は 仕合わせと呼びます

・・・『糸』 深いですね。。。

・・・一方、歌詞の中の「縦の糸」は『陽』、

「横の糸」は『陰』を表します。

この世の全てのものは「陰陽」“表裏一体”です。

一番分かりやすい例は・・・

世の中には、男性(的要素A)と、女性(的要素B)という

ワンセットの『陰陽』があります。

陰と陽が交わり絆が強靭になると、

「子ども C」という『全く新しいもの』が生まれて来ます。

A+B=AB、ではなく、A+B=Cという図式です。

今までに存在していなかった、Cというものが、

善きにしろ悪しきにしろ、時代を・・・歴史を創ってゆくのです。

この一連の流れを『生成発展(せいせいはってん)』と言います。

逆に対立しっぱなしで、縦横の人間の心の糸が

永遠に交わうことがないことがこの娑婆の世界では多く、

だからいつまで絶っても争いや戦争が無くならず、

「取った、取られた」と不毛な争い(=心の囚われ、一種の病)から抜け出せず、

巡り巡ってみんな不幸になっています。

その有様は某大国から日々放出され続ける

無色透明のPM2.5のようです。

私は、あれこれ勉強し活動している過程で、

経済と政治も国家を形成する陰陽だと思うようになりました。

経済が『陽』、政治が『陰』です。

経済が男性性のように活性化し、

政治が女性性のようにしなやかに、全ての人に慈愛をもたらす・・・

そしてその縦と横の交わりの上に立っているのは『人』・・・

つまり私たち国民であります。

大人である私たちは、家庭や職場など

あらゆる人間組織の中での役割に徹しながら、

いくつもの社会的な役割の担い、縦と横の糸の結び目を

強靭(強くてしなやか)にしていく責任があるのではないでしょうか。

その縦横交わる点にいる人には『教育』というもの・・・

「教えあい、育てあう」というものが必要で、

その根幹を担って来たのは、この国においては

神道・仏教と呼ばれる宗教なんだと思います。

神道がある程度の完成をし、

また教祖たちによって仏教の宗派の教えがある程度完成をした後、

それが100年経ち1000年経って、

その間に関わって来た人間の徳と罪が混ざり合い・・・

酷い場合は、罪ばかりが大きくなってしまい、

宗教が「ビジネス」になり、人を騙す・不幸にさせる

武器と化していることは、

現代を生きる私たちは十二分に把握している事実であります。

しかしながら、私は私たち日本人がなんやかんや言っても大切にし、

数千年の有史の間ずっと継承して来た神道・仏教と呼ばれる宗教に、

人間としての根本が有ると確信しています。

その確信に至ったのは、やはり私自身の

4周の四国遍路などの修行の賜物だと感じています。

(あと、私を理屈無しに遍路修行に駆り立てている、ご先祖様の御蔭です)

まずは失敗しながらも、ひたすら修行・実践する。

正しい知識・智恵・経験を得ながら・・・

そして、余計なものを捨てながら・・・

小豆島にいる『お大師さん』がよしこちゃんを読んでいる〜っ(%笑う女%)(%王冠%)