鳥取城の兵糧攻め

日 時 平成26年7月7日(月)
場 所 兵庫県民会館
主 催 兵庫県芸術文化協会
 信長から中国・毛利攻めを命じられた秀吉は、天正9年に
毛利氏の山陰の拠点・鳥取城攻めに取りかかりました。
 その直前には但馬(養父・朝来等)を攻略し、生野銀山等などを
押さえて財政基盤を確立しています。
 元々鳥取城は山名豊国が治めていましたが、毛利氏に背き
織田氏に降ったため、その家老や国人武士たちが吉川経家を迎え入れて城を守っていました。
 籠城兵は3400人であったと言われ、これを秀吉は2万超の兵力で攻めました。
 この時、毛利輝元・小早川隆景は備中・美作に転戦中で、吉川元春もまた伯耆に出兵中であったため、鳥取城の支援が出来ない状況でした。
 そこで秀吉は大規模で厳重な包囲陣をしき、兵糧攻めの作戦に出た由です。
 もっともその前に秀吉は若狭の商人に命じて、鳥取の米を3倍の値段で買占めさせていました。
 鳥取城では兵糧が不足し、飢餓に苦しんで防戦も極限に達したためついに開城いたします。
 城主の吉川経家は、自分一身の犠牲によって城兵の生命を救ったと言われています。
 結局 秀吉は三木城・鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻め等、戦かわずして勝ち続けました。
 (写真は、鳥取城の石垣:ネット)