金ケ崎城の攻防

日 時 平成26年7月19日(土)
場 所 兵庫県民会館
主 催 兵庫歴史研究会
 建武の新政が失敗に終わり武士達の不満が国中に充満しますが
それらの反乱を足利尊氏が鎮圧いたします。
 しかし新田義貞との確執が深まり、朝廷が新田氏を支持したため
尊氏はいったん九州へのがれます。
 やがて大勢力になった尊氏は再び京への反撃を開始いたします。
 尊氏は湊川で楠木正成を破り、天皇方と和睦して後醍醐天皇は恒良親王に譲位することを約束しますが、その恒良親王は新田義貞と越前へ下ってしまいます。
 この時北陸は陰寒の年でしたが、新田軍は寒さの準備をしていなかったため凍死者が続出して、金ケ崎城(現福井県敦賀市)に着いた時には軍勢は3分の2になっていた由です。
 そしてその金ケ崎城はやがて足利軍に包囲されることになります。
 金ケ崎城は三方を海に囲まれた要害でしたが、なにしろ兵糧が不足し、しかたなく新田義貞は食料が備蓄してある秈山城へ6騎で脱出いたしましたが、大将のいなくなった城はやがて落城してしまいます。
 この間、後醍醐天皇は吉野へのがれ、南北朝時代がはじまることになります。
 金ケ崎城は230年後、織田信長が朝倉攻めに際し、浅井氏の裏切りにあって敗走したところとしても再び歴史の表舞台に登場いたします。(写真は金ケ崎城跡:ネット)