『更級日記』〜心と言葉〜

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全13回)の第1回講義の報告です。
・日時:9月4日(木)午後1時半〜3時40分
・会場:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:『更級日記』〜心と言葉〜
・講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
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(%エンピツ%)講義の内容
1.『更級日記』の概説(菅原孝標女〈1008年〜?〉)
・平安中期(康平2(1059)年頃)成立の仮名日記。菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)作。父の任地上総国から帰京する旅の記録に筆をおこし、物語に傾倒した少女時代から、宮仕え、結婚生活を経て、寡婦となった晩年までの約40年間を回想的に綴る日記。さまざまな夢の啓示に関する記述が多く、一人の中流貴族階級に属する女性の精神史を窺うことができる貴重な文学作品。
・更級・更科(さらしな)…長野盆地南西部にある姥捨(うばすて)山を中心にした地域。芭蕉「更科紀行」。

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2.『更級日記』を読む(抜粋)
○「一」東国の生立ち、あこがれの門出(*右の文章を参照)
☆冒頭文「あづま路(ぢ)の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ.出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふものあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、・・・(省略)」
【訳】(「東路の道の果てなる常陸(茨城県)」よりも、もっと奥深い土地で育った私。どういう料簡をおこしたものか、「世間には物語というものがあるそうな。なんとかして、それを読みたいものだ」と、しきりに思うようになった。退屈な昼間とか、宵の団欒などに、姉、継母(ままはは)などから、あの物語、この物語、光源氏のくらしぶりなどの、話を聞いていると、私の物語のあこがれはつのる一方だった。…(中略)、十三歳になる年、上総の介だった父の任期が終わり、上洛することとなり、九月三日、ひとまず門出をして、「いまたち」という所に移った。)

○[六]富士川の古老の物語に興ず(*右の文章を参照)
*上洛の途次、物珍しい風物にしたる。富士山が活火山だった記述がある。
【訳】(富士山はこの駿河の国にあるが、私が育った上総の国からは西の方角に見える山である。その山の姿は、まことに世にも類のない姿である。鮮やかな青色(紺青)を塗ったようにそびえているところに、雪が積もっているので、濃い色(紫)の衣の上に白い衵(あこめ)を着ているように見えて、山の頂の少し平らになっているところから煙が立ち上っている。夕暮れになると、火の燃えたつのも見える。)…(以下、略)。

○[十]源氏物語を耽読して夢想に浸る。(*右の文章を参照)
*『源氏物語』に耽読して、選び取ったものが夕顔・浮舟。
【訳】(その年の春は、疫病が大流行。乳母も亡くなった。…また噂によると、侍従の大納言の姫君も亡くなられたとのこと。…(中略)。ある日のこと母が、おばに当たる人で地方から上京してきた人の家に私を連れていってくれた。すると、そのおばが「ほしがっている物を差し上げましょう」と言って、源氏物語の五十余帖を櫃に入ったままそっくり、くださった。胸ワクワクして、源氏物語を一の巻から読み始めて、たったひとりで几帳の内に伏せって読む気持、「后の位も何になろう」。…するとある夜の夢に、お坊さんが立ち現われて、「法華経の五の巻きを早く習いなさい」と言った。・・・以下略。
・(注)『法華経』第五巻には、女人成仏・悪人成仏が説かれている。
・源氏物語五十余帖…更級日記が書かれたのは、紫式部の没後、数十年の時期。(この時点で、すでに源氏物語は評判の高い物語であったと思われる。)

○[三十三]弥陀来迎の夢を、老いの寄るべとす。(*右の文章を参照)
*当時(平安時代)の人は、仏様をよく夢で見たようだ。(普段から仏に心を寄せ、救済をもとめていた。)
【訳】(天喜三(1055)年十月十三日の夜の夢に、私の住んでいる家の軒先の庭に、阿弥陀仏が立っておいでになる。御仏の丈は六尺ぐらいで、金色に光り輝いている。御手の片一方はひろげて、もう一方は印を結んでいらっしゃる。私一人が拝見しているのは、恐れ多く、簾のもと近く進み寄って拝むこともできないでいた。すると、御仏が、「それでは、いったん引きあげて、のちにまた迎えに来よう」とおっしゃった。その声が私だけに聞こえ、はっとめをさましたところ、十四日だった。この夢を極楽往生できる頼みにした。
・更級日記の末尾に、「天喜三年十月十三日」と、この日記で年月日を明記した唯一の箇所。