秋本番。
「食欲の秋」「スポーツの秋「芸術の秋」などなど、
何かにどっぷり打ち込むには
とってもいい季節になりました(%笑う女%)(%晴れ%)
私はあれこれ観て、考えるのが好きなので、
「物思いにふける秋」でしょうか(笑)。
電車の中、運転中などなど、ヒマさえあれば、ぼけーっとしながら
あれこれ考え、ある程度まとまったら
手帳に記したり、人様にお話したり、
このブログに記しています(%ニヤ女%)(%星%)
最近・・・38歳手前にして、
ようやく「今が一番楽しい」「今の自分が一番好き」
って思えるようになりました(%ニコ女%)(%音符1%)
それが本当に嬉しい、今日この頃です。
ほんと、良い人生を歩ませて頂いております。
多くもなく、少なくもない、過不足なく「ちょうどいい」という感じです。
必要な縁は全て与えられ、不必要な縁は全く与えられないという
感じがいたします。
縁というものは無駄がなく、絶妙なタイミングでやって来ます。
ステキであり、恐ろしくもあります(笑)。
それに「欲しい縁が来ない」というのも『一つの縁・縁の一種』
だと思えるようになりました。
つまり縁というものは、
自分が求めても、それが100%与えられるとは限らない・・・
「自分が欲しい縁」ではなく、「自分にとって必要な縁」が
与えられるということです。
ですので、自分が欲しくなくても与えられる縁もありますし、
欲しくてたまらない縁でも、与えられない縁もあるということです。
縁というものは、人間の力・努力ではどうしようもないところもあるようで、
だから、人間は神仏という絶対的で、人間の能力を超えた存在を
崇め奉って来たんやなって思います。
先日も「ちゃんと観ていない」・・・
「正しくありのままに観ずに、思い込みや願望で歪んで観ていた」せいで、
あやうく大惨事になる、完全なる誤認識をしてしまい、
しきりに反省&懺悔(さんげ)しました(%ショック女%)(%涙%)
これは世間で言うところの『悪縁』でありますが、
全ては因果応報。。。
私の日頃の行いに原因があるから、そんな出来事(結果)が起こった訳であり、
偶然ではなく、必然であります。これははっきり断言出来ます。
ここでちゃんと反省&懺悔し、自己改善しないと、
今度は本当に大惨事になってしまうこと、間違いなしです。
ですので、今回の悪縁を良縁に変えるべく、さらに修行を重ね、
自分自身をよりよく変えて参りたいと、決意した次第です。
だけど、そんなイケテナイ自分もひっくるめて全て・・・
ありのまま、全部受け入れて「これがよい」・・・
「これが今のベストな人生の過程である私」だという
確固たる自信があります。
「あの時、こうしておけば、もっと良くなっていた」
「あの時、あっちの選択を取っていれば、こんなことにはなっていなかった」
って悔やむこと・失敗は、
ちょっと振り返っただけでも大小た〜くさんあります(^^;凹)。
だけど、その時もあの時も全部、そんなイケテナイことをし、
そんな選択をする器しか無い自分だったのですから、
どうしようもない訳です。仕方がありません。
そんないろんな失敗があったからこそ、反省や懺悔があり、
改善があって、今のよりよい自分が
ちょっとずつ形成されて来た訳です。
人様から見えれば、今もかなりイケてなくて、
しゃーしゃーと、アホな選択を未だしまくっているかも知れません。
だけど、それは仕方がないんですよね。
今の私にはそれだけの器しかないんですから、どうしようもありません。
だからこそ私は日々、いろんな場所や人など・・・
自分に齎されたいろんなご縁から、順番に学ばせて頂き、
気づかせて頂いております。
ほんと、死ぬまで・・・死んでも?勉強、そして修行であります。
四国に行かなくても、山にこもらなくても、
生きているという今この時間全てが『行(ぎょう)』であります。
・・・大切なのは、
人様から見て、自分がどうか・・・という『比較』ではなくって、
自分自身が、今の自分自身の人生に
どれだけ納得をし、満足をしているかだと思うんです。
例えば、「今のよしこちゃんは幸せそうで羨ましい」と
誰かに言われまくったとしても、
私がそう認識していなかったら、私は幸せじゃないんですよね。
逆に、誰かに「よしこちゃんは●●を持っていない、
●●をしていないから、不幸やな、かわいそう〜」と言われても、
私が今の自分の状況を不幸と思っていなかったら、
幸せなんですよね。
つまり、人生の上での幸福とは、
誰かに決められる・判断されるものでははく、
自分自身が決めるもの・自分自身が感じるものであります。
このあたりを混同し、心(魂)が路頭に迷っている人が
結構おられるように思われます。
それは存在し得ない幻想の桃源郷を追い求めているのと同じで、
哀れです。。。
人間は一人ひとり使命・役割があります。
全く同じものを持つ人間はおりません。
だから、人生自体の内容もみんな違うし、
それぞれの人生で必要なものや、出会う人、気づくべきこと、
得るべきこと・・・全てが違う訳です。
ですので、誰かを羨んだり、誰かと比較し、競争するのは
基本的に無意味であり、
己の与えられた道をただひたすら歩いてゆくと、
自然と成すべきことを達成し、ゴールを迎える訳です。
それがその人だけのとっておきの「生き様」であり、
そして「死に様」だと思うんです。
ただ、誰かを羨んだり、憧れたり・・・
誰かと比較し、競争するというエネルギーを
“良い方向”に向けて、うまく活用する方法もあろうかと思います。
憧れの人、負けたくない会社・組織を設定し・・・
つまり、目に見える(数値化など)、
自分の歩むべき道の通過点を設定することにより、
切磋琢磨、自己努力をするというやり方です。
この競争というものは悪い方法にエネルギー(気)が向くと、
相手の足を引っ張ったり、妬んだり、破壊したりと、
とんでもないことになってしまいます。
その究極が「戦争」であります。
競争原理はあくまで「いい方向」・・・
正しい方向へエネルギー向けていただきたいなと思います。
臨終を迎える瞬間・・・
「嗚呼、、、我が人生に悔い無し」と一言言って、
流れ星のように、美しく潔く消えて逝きたいなと思います。
私は身内も含め、何人かの方の臨終(命が終わる前後)を観て参りました。
その度に「真の幸福とは何か?」「どう生きればいいのか?」
まさに『命(全身全霊)をかけて』故人かわ大きなそして永遠の課題を
つきつけられて来た訳です。
これから先も、どんどん突きつけられて来ます。
特に(まだまだ元気ですが)親の死が一番強烈なんだろうと推測しています。
本来、我々人間はその『死』というものから目を背けたり、
考えるのをやめたり、逃げようとしたり、忌み嫌ったりしては
いけないと思うんです。
正しい答えは自分が死ぬ瞬間に用意されていると思いますが、
分からないなりに真剣に「死(全ての終わり・無)」というものを
真剣に考え、いつも向かい合っていなければならないと思うんです。
だから我々人間は、神社仏閣やお墓とか、宗教とか発明して来たんだと思います。
「死ぬことを考えるなんて、縁起でもない」
そんなこと言ったって、人間いつか死ぬ訳です。
生き続けた人間は未だかつておりません。
縁起があろうとなかろうと、明日ぽっくり逝ってしまう可能性もある訳です。
で、『死』を考えれば、考える程、
その対極にある『生(せい。生きること)』が磨き高められて行くと思うんです。
いかにして生きるか=いかにして死ぬるか
死に様=生き様であります。
毎日、死ぬ準備(覚悟&心構え)を鍛錬しておけば、
やがて訪れる本当の死の瞬間、
意外とすんなりとあの世に逝けそうな気がします。
毎日、今日が終わり、いつ死ぬか分からない・・・
明日が本当に来るか分からないって思えれば、
日々の生活、人生全体が一気に輝いて来るのではないでしょうか?
生きていること自体に歓喜や感謝の念が無くなって来ると
生きていることが『当たり前』になり、日々が惰性の産物になっていくようです。
更に、生きている上での苦難が、
自分自身の心を改善し、物事をよりよく結実成就させるための糧ではなく、
不足不満的感情の種になり下がり、
そんな感情(わるい方向性を持った煩悩)が
その人の人生を攻撃し苦しめ、ドツボにはめてゆくようです。
生きているからこそ、苦難は感じられるものであり、
死んでいると、苦難も感じられない訳ですが、
上記のような不足不満状態になると
やがて全てが「無(む)」になるという真理が
完全に観えなくなってしまうようです。
私は四国遍路行で3回くらい、「死ぬかも」と思った瞬間がありましたが、
一瞬でも死にかけた経験が今に生きている気もいたしますし、
故人たちが、身を持って死というものを見せて下さっているので、
ちょっとずつ、ちょっとずつ・・・見えて来たような感じがいたします。
いい死に様をするためには、
まだまだやるべき・満行すべき修行は多いです(%痛い女%)(%星%)が、
が、高いハードル・レベルを目指すほど、
やりがい&生き甲斐があるというもんですヮ〜(%ニヤ女%)(%ハート%)笑
ボチボチ、マイペースで一所懸命、
自分に与えられた修行をこなして行きたいと思います。