日本近現代史「日清戦争における兵士・軍夫」

(%緑点%)後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回)の第3回講義の報告です。
・日時:9月30日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:日本近現代史「日清戦争における兵士・軍夫」
・講師:原田敬一先生(佛教大学教授)
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**日清戦争(1894年〜1895年)**
復習:H24年3月講義『日清戦争』(原田先生)
・日清の対立、緊張関係⇒東学党の乱(1894.5)⇒日清の出兵→海戦(8月豊島沖海戦)(黄海海戦、威海衛攻略)⇒講和(下関条約)(1895.4)⇒台湾攻略
・「当時はまだ小さな若い国(司馬遼太郎)」であった日本は、日清戦争という大規模な対外戦争をはじめて経験することで変化し、国際的地位が向上し、大陸進出の足場を築きました。一方、「眠れる獅子」といわれた清朝の弱体が白日のもとにさらされると、列強(露・独・仏・英)は租借地を獲得して勢力範囲を設定。鉄道の建設、鉱山の開発など様々な利権を手に入れた。

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(%エンピツ%)講義の内容
日清戦争の兵士と軍夫
兵士…17万人の出征軍隊(内地勤務を含めた動員は24万人)
軍夫…15万人
(注)軍夫(ぐんぷ):民間人を口入業者などより集め、臨時の軍属として兵站輸送にあたらせた。物資の輸送だけでなく、前線にいるので戦闘の補助的な役割も分担。
・日清戦争は、兵士・軍夫約32万人が朝鮮・清国の戦場に向かった。これだけ多数の日本人が海を越え外国を経験するのは秀吉の朝鮮侵略以来で、近代になって初めてである。
・日清戦争では、輸送も人力が頼りだった。 …実際に日清戦争では、駄馬と輜重輸卒の招集はほとんど行われず、軍夫を民間で募集し、彼らが大八車や自らの肩で運んだ。
・また、大きな問題は食糧が戦場に届かないことで、食料難に悩まされた。
*日清戦争の反省から、日露では民間の力に頼ることはやめた。(軍夫の雇用はお金がかかり、また統制がきかない。)

従軍日誌
日清戦争の従軍日記は、現在まで約30種類見つかっている。初めて「外国」に接した兵士たちは、まず道路や家の不潔、矮小さと、暑さに驚いている。
・日清戦争に20歳で従軍している兵士たちは、1880年に小学校に入学しており(男子就学率約40%)、そこで手と顔を洗い、口をすすぐ教育を受け、「衛星と病気」について教え込まれていたはずである。(それでも戦場の水に頼らなければならない状況下では、伝染病に悩まされ、多くの病死者が出る。)

日清戦争では、戦死者を上回る病死者が出た。(*右の資料を参照)
戦争は病気との戦いであった。日清戦争では、戦死1132人、戦傷死285人、計1417人。病死は1万1894人。
・病気は、不衛生な水や食料による赤痢やコレラのほか、冬季作戦による凍傷、風土病のマラリアのほか、脚気があった。日清戦争では、最多の患者は脚気(3万4783人)で、第2位の急性胃腸カタル(1万3138人)、第3位コレラ(1万2205人)を大きく上回っている。栄養不良からくる脚気は、重くなると心臓を弱め、亡くなる。(死亡率11.3%)

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**あとがき**
相次ぐ戦争と動員(*右の資料を参照)
日本は「日清戦争・日露戦争・第一次大戦・シベリア出兵・日中戦争・アジア太平洋戦争」と1894年から約50年間、戦争をしていましたた。現在では、シニア世代にも戦争を知らない世代が多くなり、日本近現代史を学ぶ重要性が増しているのではないでしょうか。

*原田先生の講義(H24年3月から6回)は、今回で終了しました。本当にありがとうございました。