【写真:生駒・宝山寺の役行者像→】
相手から「貰おう」、「何かをして貰おう」と思うから
不足不満が出る。
そしてそれが『不幸の原因(種)』になる。
つまり相手から「何らかの“気”を貰おう」とする訳ですが、
その“気”の貰う、自分自身の『心の在り方』が不純であったり、
貰うもの自体が不純であると、
貰った人間の心の“気”が乱れ、不純な心になり、
不幸になって行くようです。
逆に相手に『与えよう』『何かをしてあげよう』とすれば
その心持ちが『幸せの原因(種)』に変わる。
ある尊敬する方が・・・
「あてにしない 期待しない 頼らない」という
お言葉を教えてくださいました。
それ以後私は、
例え相手が年上であろうと、男性であろうと、
社会的地位が高い方であろうと
自分以外の他者に対して、
「あてにしない 期待しない 頼らない」という行を続けています。
(なかなか、うまいこと、いきませんが・苦笑)
他者に対して「あてにしない 期待しない 頼らない」と
どのようなメリットがあるかと言いますと、
「他者からの“気”を貰わない・受けない」ということです。
つまり、相手からどんな腹が立つ等のマイナスの言動を返されても、
腹が立たないということです。
例えば、相手が30分遅れて待ち合わせ場所に来た上、
言い訳ばかりして、一言も謝罪しなかったとします。
そこで自分が「あてにする 期待する 頼る」人間であれば、
相手の“気”を貰うし、自分の理想像と相手の現実の有り様のギャップに
めちゃくちゃ腹が立ちます。
が、「あてにしない 期待しない 頼らない」人間であれば、
腹も立たないし、あきらめもつくし、
そもそもそんな人間に対して何も期待もしません。
とにかく、自分よりもレベルが上の方の「気」は
喜んで自分の中に取り入れさせて頂きますが、
それ以外の気は自分自身の心・精神を守るため、
余計な気を使わないために、全てシャットアウトし、
心の表面で全てはじき返しています。
私自身、そんなにエネルギーのある人間ではないので、
燃費のいいハイブリットカーのように
効率よく、心や気を使って参りたいと思っています。
キーワードは「取捨選択」です。
選択しなかったものは自身の意識から削除し、
選択したものは徹底してやり抜きます。
私の場合、何でもかんでも受け入れる時期(修行段階)は終わりました。
・・・人間は生まれて来た時の赤ちゃんの姿や
幼児期・子供時代は、みんなカワイイんです。
ほんと、天使の時代ですよね。
ところがどっこい、思春期からだんだんと雲行きが怪しくなり、
体力的な成長のピークが過ぎて来ますと、
容姿がだんだんと見難く(=醜く)なって来てしまいます。
体力的な成長のピークが過ぎる頃から重要になって来るのが
精神的な成長なのではないでしょうか?
老化現象により、見た目がだんだんと醜くなって来ても、
心(中身)がどんどん成長すれば、
若い時とは種類は違っても、どんどん“美しく”なって来ます。
老化防止の身体(見た目)の健康維持も重要だと思います。
だけどそもそも論として重要なのが、
心を磨き続けることなのではないでしょうか?
そこ心の美しさが、外面をも磨き高めてゆくのです。
心を正しい方向に向けて行くことが「修行(行)」の
本来の主旨・目的なんだと私は考えます。
人里離れた霊峰でせっせとすることだけが行ではありません。
従って、人は修業(行)をし続けなければ、
人間としての月日が流れる程、我が儘になり醜くくなって来ます。
行とは『心の柔軟体操』『心の老化防止・若返り術』であり、
『心を正しい方向へシンカ(進化・深化)させるための秘法』であります。
修業とは、人里離れた山奥で仙人の如く修業するものだけでなく、
日常生活の場所で、あれこれと正しいベクトルに
自分自身を向けていくこと全てが修業であり、
更に広い意味で申しますと『生きること自体』が修業であります。
自らの行(正しい行い)により、
自身の長い人生や家系に積もり積もった
罪(我が儘・頑固な心)が消罪され、浄化・昇華していきます。
観察し続け、いよいよ最近、
もう確信の域に来ている真理があるのですが、
結局のところ、自分自身の『魂の修行レベル』と同様の人間しか、
自分の周りには集まって来ないということです。
その人の本性は分からなくても、
その人の「取り巻き・仲間」を静かに観察すれば、
その人の人となりがざっくりと読めるのです。
よい人は正義のない人には応援・サポートしません。
よい人は正しくない人間には戒めを与え、正しい人間に施しを与えます。
人間、特に中高齢者の年齢になって来ますと、
ある意味、若者以上に謙虚さやすなおさ、「可愛い気」がないと
世の中から冷たくあしらわれるようです。
お金や地位・名誉があれば、まだチヤホヤされますが、
それらが消えて無くなった瞬間に一気にご臨終!“終わり”であります。
年齢を重ねる程に私たち人間は、
今まで長い間生きてきたことへの自信(=過信)や、
老いから来る身体能力や脳機能の低下によって
「もう今までがんばって来たんやから、もう何もしなくていい、しんどい。
これからは自由に我儘に暮らしたい」と思ってしまいがちです。
しかしながら、人間としての「あるべき姿」までは捨ててはいけないと思うのです。
人間が進化や成長を忘れてしまったら、
人間的「人」ではなく、動物的「ヒト」。
『動物』に退化してしまいます。
例えば、ハトの子はずっとハトであります。
何年経っても、何代下っても、
先祖代々、駅のホームや神社の境内で、
死ぬまで食べるものを探し続けているのです。
「今のままでいい」=もう“伸びしろ”がない。
今のレベルで止まるということです。
まだ「停滞」ならいいのですが、
時代というものは、「上りエスカレーター」のように、上前に進んでいます。
ですので「停滞」=「退化」ということになります。
しかもここ数十年で、宇宙全体の進化のスピードが上がっています。
その上りエスカレーターの速度が上がっているということです。
ま、百歩譲って、中高齢者の方々の成長云々は横に置いておいて、
現代日本の若者にこの人間的退化が広がっていることが
私はかなりの危機感を感じています。
だけど、ここで面白いのが、
動物的ヒトに成り下がっている若者が多い反面、
人間的人も増えているのです。
何が言いたいかと言いますと、
今までの日本にいた「中流・中レベル」の人間が
下部と上部に分かれて来ているということです。
今、経済格差の問題が叫ばれていますが、
それ以前・そもそもの問題は「精神レベル格差」の問題かと思います。
精神・つまり心の格差が、
経済格差を生み、幸福格差を生んでいる訳です。
お金・物を生むのは、人の心であります。
心の格差が物の格差になってゆくのです。
危機感を感じ、日々自分のため・誰かのためと
修行(行)をしているのは、
一体、日本人の何割なんでしょうか?
恐ろしくて、何割とか書けません。
だけど私は思うのです。
例え、ド真剣に行をし、精神レベルが圧倒的に高い日本人が
1%もいなかったとしても、
その1%弱の方々のエネルギー(気)が強かったら、
正しい方向に成ってゆくのです。
要は人数ではなく、正しいエネルギーの総量であります。
気というものは面白いもので、
強いエネルギーの方に、人間は引っ張られていきます。
水が上から下に流れるように、
人間の気も強い方から弱い方に流れてゆきます。
ですので、私は自分の気をいかに善いものに磨き高め、
そして強くするかが、行の最大のテーマ・一つの大きな目標であります。
ほんと、行というものは、底なしの深みがあり、醍醐味があり、
「行者・よしこちゃん」の飽くなき追求はまだまだ続きま〜す(^0^)☆