朝の通勤電車について

先日、久しぶりに朝のラッシュの電車に乗りました。

20代真ん中までは電車に乗って通勤していました。

このラッシュが嫌でしたので、

地元・自宅が職場になったことが凄く嬉しく

『優越感』のようなものを感じたのを覚えています。

近年は女性専用車の登場や、

比較的空いている快速の停車駅増加で、

ラッシュが緩和して来たようです。

また労働人口の減少やネット社会で

私のように自宅で働くことが出来る人も増えていると感じます。

さすがに毎日は未だ嫌ですが(笑)、

朝のラッシュを観察しておりますと、

朝のラッシュが、『マラソンのスタート』のように見え、

結構好きになって来ました。

大阪マラソンなど、

全国各地で行われているマラソンのスタート直前のような、

これから挑む競争に対するあらゆる

『緊張感』のようなものが、

まだアタマが起き切れていない「眠気」と

「毎日の生活習慣の惰性や倦怠感」に混ざりつつも鮮烈に感じます。

その緊張感の中には、

大きく分けて2つあり、それは『希望』と『恐怖』です。

「今日もがんばるぞ」と静かに闘志を燃やす人と

「どうしよう…」と悩み深い人…

その殆どは比率は違えど、両方の心が交じっている感じです。

私は毎日通勤するという働き方・選択を捨てた人間です。

その選択はこれからも変えるつもりはありません。

しかしながら、時代が少し変わり、

私の考え方も変わって、

知らない誰かと同じ電車にゆらゆら揺られ通勤するという

「人生のマラソン」もまた一つの素晴らしい選択やなと、

思えるようになりました。

そしてこの「人生のマラソン」は駅伝方式で、

昨日の自分から今日の自分へバトンを貰い、

そして明日の自分へバトンを渡してゆきます。

“カミサマ”から「明日からバトンは渡さなくていいよ。バトン返して」

と言われたら、『人生遍路マラソン』のゴール到着で、

いつゴールを迎えるかは誰にも分からないようになっています。

人生というものは、

どっぷり浸かっていますと永遠に続くように見える・感じるものですが、

ジワリジワリと終わるかイキナリ終わるか…

とにかくやがて終わるものであります。

が、自分の遺志〜念〜というものは、

目には見えなくなりますが、永遠にどこかに遺り続け、

“時代(宇宙)の礎”に成ってゆくようです。

つまり、生物学的な死=全てが消えて無くなるのではなく、

『全ての一部』に成ってゆく訳です。

有→無→空になります。

朝のラッシュ一つにも、いろんな見方や

“世界”が広がっているなぁ〜って、感じました(%笑う女%)(%晴れ%)