賎ヶ岳の合戦

日 時 平成26年11月10日(月)
場 所 兵庫県民会館
主 催 兵庫県芸術文化協会
 賎ヶ岳の戦いは、羽柴秀吉が柴田勝家に勝利し、名実ともに
信長の後継者としての地位を確保して、天下人へ近づいた世紀
の合戦です。
 中国にいた秀吉は本能寺の変を聞くや毛利氏と和睦して中国
大返しにより山崎の地で明智光秀を破ります。
 一方 勝家は信長の上洛後は主に北陸方面の調略を担当し、北ノ庄(現福井市)に築城して上杉軍と交戦中であったため光秀討伐に遅れ、その後秀吉に主導権を奪われてしまいます。
 そのような二人が1583年(天正11年)に北近江で対陣したものです。
 しかしこの対陣中に織田信孝が岐阜で挙兵したため、これを討つために秀吉はいったん大垣城に入るも柴田軍の攻勢を知って近江に取って返し、柴田軍先発の佐久間盛政を破って大勝いたします。
 さらに、柴田軍に組していた前田利家も秀吉に降伏(戦場離脱)したため、勝家は北ノ庄に籠城せざるを得なくなりますが、もはや多勢に無勢でついに落城し、妻の小谷の方(お市)とともに自刃いたします。
 なお、小谷の方とは織田信長の妹で当初近江小谷城の浅井長政に嫁ぎますが、浅井家が滅亡したためいったん織田家に帰り、後に勝家に再嫁した人です。
 秀吉は信長の葬儀も大々的に行い、自分の存在を大いに世に知らしめもしています。