「子どもの自殺」の社会学 「いじめ自殺」はどう語られてきたのか その2

伊藤茂樹より

◎「いじめ自殺」のロジック
・自殺の原因がいじめられていたことであることの立証についてはどうであろうか
「いじめ自殺」の責任を争う裁判において争点になることも多いが
これにも困難が立ちはだかる
そもそも自殺が既遂となった場合、本人に直接その原因を確認することはできず
間接的に推測するしかない
遺書がある場合は有力な手がかりとはなるが
これは自殺全体の約3割程度にとどまると言われ、決して多くはない
またそこでの記述も「いじめられているから自殺する」といった形で
原因を明確に示しているとは限らない
原因らしき事柄に触れていなかったり、ほのめかされているだけだったり
複数の事柄が列挙されていたり、原因の特定には至らない場合が少なくない

・以上見たように「いじめ自殺」をした者はその主体性を極小化ないし
剥奪されると同時に、「完璧な被害者」と見なされる
そして〔完璧な被害者〕を生みだした加害者,すなわち「いじめ自殺」における加害者は
もっとも憎むべき「最悪の加害者」と位置づけられる
しかし、社会問題化するいじめの加害者はほとんどの場合子どもであるため
その具体像が明らかにされることはほとんどない
そこで非難の対象として間接的加害者が定められ、非難が向けられる

・加害者と被害者は対を成す概念であるが
「いじめ自殺」においては加害があって被害が生じるというより
「いじめ自殺」をした者という被害者の像が先に存在し
ここから遡及的に加害者(直接的/間接的)が生み出されると言った方が良い
先述した「いじめ自殺」における加害者像は
論理的には少なからず無理を含んでいたわけであるが
それはこの様に「いじめ自殺」から事後的、遡及的に導かれたもの
すなわち、「最大の被害者を生みだした者は最悪の加害者であるはず」という
ロジックに現実の方を合致させようとした結果とみることが出来る

◎消費される「いじめ自殺」
・いじめ問題を語る言説は、語るものにとって少なからぬメリットやカタルシスを
もたらしており、彼らはいじめ問題を消費しているということを指摘した
これだけならいじめ問題の意図せざる機能と見てすませることも可能かもしれないが
こうしたいじめ問題のあり方はいくつかの「逆機能」ももたらしている
言い換えれば、問題を消費することによって失われるものが少なからずあるわけで
これについて次に考えておきたい

・まずいじめの当事者に対する逆機能から考えよう
当事者のうちいじめに遭っている者、すなわち被害者に対して
「いじめ自殺」に関する言説の多くは自殺という手段の教唆や後押しとして
機能する可能性がある

・「いじめ自殺」は常に起こってるのではなく、ほとんど起こらない時期と
連続して起こる時期があるようにみえる
もちろんすべての「いじめ自殺」を捕捉することは困難であるが
少なくとも報道されるケースを見る限りそうである
なぜこうなるかといえば、いじめや「いじめ自殺」が社会問題化して
それらについての言説が数多く流通すると
その時いじめられている子どもも少なからずそうした言説を見聞きすることになり
そこから自殺という選択肢があることに思い至る
あるいは思い出すためではないかと推測できる

・もちろん「いじめ自殺」に関する言説のほとんどは
自殺を肯定したり勧めているわけではない
逆に『死んではいけない』と繰り返し訴えるのであるが、いじめの加害者を責め
被害者に共感、同情するこうした言説は、結果的に自殺に「効果」があると
被害者に思わせてしまう場合が少なくないのだと思われる
こうした言説ではいじめられて自殺した子どもに共感し、尊重しようとするあまり
その子が最後にとった自殺という手段も結果的に肯定してしまっていることが多い
自殺したことが誤りだったとか、馬鹿馬鹿しいとか、意味がないなどと
全否定する言説はほとんどなく、そうした状況は間接的にでも
自殺を肯定するメッセージとして作用する
これを受けて、死ねば楽になれるとか報われると思ってしまう子ども
自分が言いたくても言えなかった、加害者を徹底的に非難し責める言説を見聞きして
死ねば加害者に報復したり後悔させることが出来るように思ってしまう子どもが
少数ながらおり、その中のごく一部が実際に自殺を試みるのではなかろうか

・次に加害者について考えよう。いじめの加害者については言説の逆機能を
見出すことはできないが、加害者への非難や反省、贖罪を促すという語り手の意図が
伝わることはまずないということは指摘しておきたい
既に述べたように、そもそも加害者は自身を加害者と認識することが少ないため
彼らに向けたメッセージはなかなか届かない
仮に加害者を非難する言説が名指ししているのが自分のことだと認識したとしても
いじめる側にはいじめを正当化する独自の論理があり
それゆえに自身の行為非難されるべきいじめとは認識しない
「いじめられる側の気持ちを考えろ』「いじめは人間として最低の行為」といった非難と
そもそもいじめられる側に非があるとか、自分たちがやっているのはそれに対する
正当な制裁であるといった彼らの論理が交わることはまずない

・また、いじめや「いじめ自殺」においてしばしば名指しされる
「間接的加害者」についてはどうであろうか。
間接的加害者は多くの場合大人であり、学校や教育委員会の関係者
加害者の親などがそれにあたる
彼らは子どもが行ったいじめの加害について何らかの間接的責任を負っていると
社会的には見なされるが、それは彼らがいじめやそれがエスカレートするのを
止められる人物とみなされている事を意味する
この様な人物に対して向けられる容赦ない糾弾は結果的に彼らを疲弊させ
不当に、過剰に非難されているという〔被害者意識〕を高めることになろう
これはいじめの解決や抑止という彼らに期待される役割遂行への意欲をそぎ
責任逃れや自己保身、自己正当化にエネルギーを
「浪費」することにつながると予測される。
これはいじめ問題の解決や予防にとっては逆機能と言わざるを得ない

・どれだけ惜しみ悲しんでも命を絶った被害者は戻ってこないし
ひとたび「いじめ自殺」が起こると似たような自殺が続くことが多く
そのたびに社会は繰り返しショックを受け、嘆き悲しむ
その一方で加害者は人々が望むように裁かれたり罰せられたりすることはあまりなく
彼らに対する囂々たる非難はほとんど届かない

・「いじめ自殺」を消費することは容易に出来るが、消費である以上
消費の対象がなくなればそこには何も残らない
そのため、正論がずっと語られ続けるのではなく
暫くすると言説は収まって次に問題化するまでしばらく間隔が空くのである

・いじめ問題は上述のように逆機能を果たしていると同時に
それ自体として大いなる逆説でもあることについて次に見ておこう
社会問題としてのいじめや「いじめ自殺」は直接的及び間接的加害者を
名指しして徹底的に非難するという点で、皮肉なことに子どもたちの間のいじめと
相似形を成している。すなわち、事実上やり返せない相手を選んで徹底的に
攻撃するという点においてである
「いじめ自殺」の加害者とされるのは、被害者を死にいたらしめたり
死を防ぐことが出来なかったとされる者である
いじめという、今や絶対的な悪であることに強固な社会的コンセンサスがある行為を
行い、そのターゲットになった子どもがすでに死んでいる以上
加害者と名指しされたものがこれについて反論や抗弁をするのは
ほぼ不可能である一方、非難する側は直接的には無関係の第三者であり
やり返される恐れは皆無である
そのため、後者にとって非難はいわば絶対に負けない戦いである
負けないことが分かっている戦いは「楽しい」ものであり
それを楽しむのがいじめ言説なのである
そしてこれは何らかの力関係において弱い立場にある少数者に対して
多数者が手を変え品を変え一方的に攻撃するいじめと同様の構造である
ここで味わえる無謬で無敵の正義の感覚は
いじめの発生に関して精緻な「心理社会学的」モデルを構築した内藤(2001)が
指摘するいじめる側の「全能感」に類似したものと言えるだろう

・以上ような特徴を持つ言説とそれが卓越する状況は
いじめや「いじめ自殺」に限らず、多くの社会問題に共通してみられるようになっている
すなわち、なにがしかの加害行為を行ったり何らかの落ち度がある特定のターゲットを
徹底的に非難する言説が「集中豪雨」的にあふれる状況であり
そのようになったイシューこそが社会問題であるとすら言えそうである

・この様に特定の内容、タイプの言説があふれるのは
ある種の機能を果たしているからであろう
それはここまでいじめや「いじめ自殺」についてみてきたのと同様
言説を語る者にとってのアイデンティティの確認やカタルシスをもたらすことである
今日、多くの社会問題は消費の対象としてあり、
消費するために問題が見出されるといっても過言ではない
「いじめ自殺」はそうした今日的な社会問題の典型なのである

<寒くて花が少ない季節に皇帝ダリアがあちこちで咲いています>