「子どもの自殺」の社会学 「いじめ自殺」はどう語られてきたのか その3

伊藤茂樹より
◎「いじめ自殺」を超えて
・子どもの自殺は極めてまれな現象である一方(あるいはそれゆえに)
社会の集合感情を著しく侵害するので、社会はそれを回復するために
「分かりやすい」原因を求めてきた結果、80年代に「いじめ自殺」が
発見されたということである。しかし「いじめ自殺」は報道などを通じて
私たちがイメージするよりはずっと少なく
子どもの自殺の中でごくわずかにすぎないという事実もある

・これらの事実を認識したときに導かれるのは
「いじめ自殺」以外の数多くの子どもの自殺にも十分に目を向け
「いじめ自殺」に特化しない自殺予防を考える必要性であろう

・自殺ばかりに目を奪われるべきではなく、現代社会において
子どもが置かれている生活世界の全体について考える方がずっと重要である
その中には自殺につながる要因もあるが、自殺というショッキングな結末や
そこに至るセンセーショナルな事情にばかり目を奪われて
状況全体が見えなくなるようなことは避けなければならない

・自殺した者の心の動きを最大限に推し量り、可能な限りその意思を尊重しよう
とすることは、自殺の「効果」を上げさせることになる

・もちろん、「いじめ自殺」をした子どもは身勝手な主張を通すために
命を捨てたのではない。
だからこそ、そこまで追い詰められ絶望して命を絶った子どもの思いをせめて
死後にでも生かしてあげたいと思うのは自然な人間らしい感情である
しかし、私たちがそれをするから「いじめ自殺」は起こり続けるというのも事実である

・しかも、自殺した子どもの意思が本当に実現されているのかといえば疑問である
確かに自殺の後は大きな〔騒ぎ〕になるが、多くの場合、その後もいじめ事体は
起こり続けるし、いじめをめぐる状況がよくなるわけでもない

・自殺が無意味であったり無駄であること、すなわち、自殺しても自殺した者の
意図通りにことが進むわけでは決してないことを
自殺を念慮する者にわからせることが最も重要である
そしてこれは、自殺予防のためにあえてそのような語り方をするというのではなく
私たち自身がこれを事実として認識することが重要であろう
自殺によって何かを訴えたり変えようとしても、ほとんどの場合
死後に意図通りに物事は進行しない
またほとんどの自殺は、直後の衝撃がいかに大きくても、身近な人々は別として
案外早く忘れ去られていく。
社会は自殺した人のことよりも自分たちの集合感情のほうがずっと大事なのである
この身も蓋もない事実を私たちが十分に認識し
それを通じて自殺を念慮する人々にも認識させる必要がある

・もちろん、私たちはいじめ問題について「語らない」ことをめざすのでもない
「いじめ自殺」については、仮に私たちが全く語らなくなったとしたら
なにがしか減少させることが可能かもしれない
しかしそれでもいじめや「いじめ自殺」が私たちの社会にとって重要な問題であると
みる立場に立つ以上、これらについて語ることは続けるべきであろう
同時に、いじめという現象は私たち一人一人が加害者側としても関わってきた、
そして今も関わっている問題でもある
その問題について語るのであれば、内容は何であれ、この事実を常に念頭に置いた
覚悟と責任を伴う語りでなければならない
覚悟と責任を伴う語りが多くを占めるようになるのは遠い先のことかもしれないが
それを目指した第一歩を踏み出すしか私たちがとるべき道はないはずである

・・・・・私も自殺した子どもに皆が同情を示すことは、結果的に今生きている子どもが自殺への誘惑にかられてしまうのではないかということを前から感じていました。
誰も気づいてくれなかったけど自殺することでこんなに注目されるということも子どもは錯覚してしまうかもしれない。
しかし何人もの子どもが自殺しても何も変わらないし、いじめも相変わらず減らない。

どんなに遺書を書いたところで、いじめっこが罰せられたり、リベンジできることはほとんどなく、死んでしまったら何もできない。
生きて手紙を書くことのほうが効果がある。
相手は複数、親や先生や警察や児童相談所など思いつくところに出してみよう。
これも一つのリベンジだけどもう1つは、いじめっこよりも幸せな人生を送ること。
人をいじめて喜んでいるような人間には幸せな人生など送れるわけがない。
いじめられて苦しんだ子どもこそ幸せに生きる権利も資格もある

といじめ防止の中学生向けの出前授業では伝えています。
子どもからは「なぜ自殺したらダメなのかがよく分かった」と反応があります。
いじめられて自己嫌悪や自己否定になっている子どもには「命の大切さ」という漠然とした話はきっと他人事のように感じられるのではないかと思います。

<ノコンギクが咲いていました>