対馬と朝鮮との関わり

日 時 平成26年11月19日(水)
場 所 宝塚男女共同参画センター
主 催 みれん歴史歩こう会
 対馬藩第19代藩主・宗 義智(そうよしとし)のお話しです。
 義智は1568年に第15代当主・将盛の四男として生まれ
ましたが、兄達が早世したため家督を継ぐことになりました。
 対馬は稲作に不向きな土地柄であったため、専ら朝鮮との
交易等によって国を支えていました。
 豊臣秀吉が天下人になると日本は明(みん)へ攻め入ることになり、義智は李氏朝鮮を服属させる命令を受けますが、朝鮮は元々明の冊封国であったことから全く話にならない交渉でした。
 それでも義智は秀吉の天下統一を寿ぐ使節を招きますが、秀吉はこれを服属と勘違いしたため、ついに文禄・慶長の役が勃発して義智も不本意ながら一番隊として出陣します。
 やがて秀吉の死によって朝鮮撤兵となるものの、一旦朝鮮に敵対したために命綱の交易は絶たれ、苦境に陥り、かつ関ケ原の戦いで西軍に属したため藩の存続すらあやうくなりますが、家康が朝鮮との国交を重要視したこともあって、何とか生き延びることが出来ました。
 江戸時代には朝鮮通信使の訪日に成功したり、慶長条約の締結に尽力し、正に一生を朝鮮との関係に捧げた人と言っても過言ではないでしょう。
 対馬藩はその後巧みに生き残り、明治維新を迎えて宗家は伯爵になったとのことでした。