少年犯罪 からだの声を聴かなくなった脳 瀬口豊廣より その4

・ヒトというものが、社会的に人となっていくためには
そこにはどうしても言葉というものが必要になってくる
なぜなら社会性を身につけるということは世間の人々が
共有している生活様式をひとまず基本的な経験として
身体化していくことにほかならず
それは親から子へ言葉(身体言語も含めて)を介して
伝達される以外に方法がないからである

親からの言葉を理解し、それを身体に行動基準として
馴致させていく過程が社会化ということである
すなわち、言葉(理知)によって自らの身体を社会的に
適応させるために創っていくことは
何よりも自己にとって身体が他者的存在だからである
頭の中で言葉を思い浮かべ、そのイメージしたとおりに身体が
動いてくれるように頭と身体は繰り返し連携しつつ統合されていく
そこにはじめて自分の身体が自己コントロールしようという
主体性も芽生えてくるのである

・『<非行少年>の消滅」の中で土井隆義はこう述べている
「主体としての自己とは、内発的な衝動に突き動かされて
揺れ動くような自己ではなく普遍的な価値基準を備えた
自律的な自己のことである
中学生Aはその主体としての自己を築くための基盤たる言葉を
持っていなかった
言葉によって自己が構築されているという実感がないから
社会的に自己を「表現」する言葉も持ち合わせていない
あとは暴発的に自分を「表出」するだけとなってしまう
ここに明確な殺意はない
あるのは衝動的な身体感覚だけで、それを殺意へと
変換するための言葉がないからである」

・事件を起こした少年たちの報道を読むと、決まってそこには
「普通」の中学生という文言が出てくる
普段はおとなしく真面目できちんと挨拶もできて
人を殺すような少年には見えない、というのである
言葉によって自分を構築できていないということは
身体と脳の連携が切れているということであり
それは自己と社会とのつながりも切れているということなのである

・身体と脳の間には神経学的には少なくとも次のような連関がある
内的あるいは外的な刺激を身体が知覚して、その信号を
大脳に送って認知される
そしてその刺激に対してどういう行動をとるのが自分にとって
最も好ましいことなのかを考え,判断して行動する。
すなわち、刺激⇒知覚⇒情動・欲求⇒反応という連関ができあがる
そしてその認知は必ずやその人の過去の経験によって規定される
過去における記憶や言語や思考のあり方と比較されて
その新しい刺激が何らかの位置づけと価値を持つことによって
内面化されていくのである。
それは時間を超えて継続していくものである

・土井隆義はこうも言っている
「自らの存在感覚の時間的な統一性を失ってしまった自己にとって
経験の1つ1つのエピソードは、あたかもテレビのチャンネルを
ザッピングしていくように相互の脈絡を何ら保つことなく
ただ平面的に並んでいるだけである
そのため、未来のあるべき姿へと向けて自己の継続的な組織化を
行うことが困難になってしまう
「いま」というこの時間が、過去から未来へという時間の中に
位置づけられて相対化されることがないので
「わたし」という存在もたった「いま」のこの瞬間にしかリアリティを
感じられないのである
過去から未来という時間を認識できなければ当然のごとく
行動は刹那的になっていかざるを得ない

<ビオラも寒さの中で咲いています>