「古代の大和と河内」

(%緑点%)後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回)の第11回講義の報告です。
・日時:12月9日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:古代の大和と河内
・講師:和田萃先生(京都教育大学名誉教授)
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奈良盆地の三大古墳群
奈良盆地には、オオヤマト古墳集団、佐紀盾列古墳群と馬見古墳群がある。地図上でその分布をみると、盆地の東縁にオオヤマト古墳群、西縁に馬見古墳群があり、ほぼ東西に向かい合って興味深い。
オオヤマト古墳集団
奈良盆地の東南部、竜王山から三輪山にかけての麓には多くの前期古墳が点在し、山辺の道を辿ると、まるで古墳のなかをあるいているような感さえある。それらの古墳群はオオヤマト古墳集団とよばれる。
佐紀盾列(さきたてれつ)古墳群
奈良県と京都府との境に、東西に伸びる低い奈良山丘陵がある。この丘陵の南斜面は、東部地域が佐保、西部地区が佐紀(狭城)とよばれ、数多くの前方後円墳が点在している。これは平野部から望むと、いくつもの盾を並べたように見えるので、佐紀盾列古墳群とよばれてきた。
馬見古墳群
奈良盆地の西縁、北葛城郡広陵町・上牧町・河合町にまたがって、低い丘陵が南北につながっている。東西約3.5km、南北約7.5kmの馬見丘陵には、古墳時代前期後半から後期にいたるまで多くの古墳が造営された。

河内の二大古墳群
河内には古市古墳群と百舌鳥古墳群がほぼ東西に向かい合っている。それぞれの古墳群で最大規模を有する大仙古墳と誉田御廟山古墳が、ほぼ同一線上に並ぶ。両古墳群の墓域が東西に向かい合うように、意図的に設定されたことが考えられる。
古市古墳群
藤井寺市から羽曳野市古市にかけて散在している古墳を、古市古墳群と総称している。古市古墳群の営まれた一帯は、水陸交通の要である。大和川と石川の合流点に近い。四世紀末ごろから五世紀代に、朝鮮の三国(高句麗・新羅・百済)や中国との交渉が頻繁となるなか、四世紀に王権が所在した奈良盆地はいかにも水陸交通に不便であり、そうしたことで、王権の主たる基盤を河内平野に移したのであろう。
百舌鳥(もず)古墳群
古市古墳群にやや遅れて百舌鳥古墳群が形成されはじめた。位置は、堺の旧市街地の東南方向で、東西南北が約4kmのほぼ正方形の区域内に、かつて94基が存在していた。これらの古墳は、その側面を大坂湾に向けている。当時、難波の海を航行する船から巨大な墳丘がよく見えたであろう。

*大和・河内連合政権論(和田萃)
墳墓の所在地は大和から河内へ移動しているが、宮都の所在は、仁徳と反正を除けばほぼ大和に集中している。墳墓の所在地の移動は政治権力の中枢の移動を意味しないとする。墳墓より宮都の所在地こそが当時の政治権力がどこにあるかを具体的に示していると重要視。

古代の道
山の辺の道
三道や横大路よりも古い道があった。それが山の辺の道。上ツ道よりさらに東の、山すそをつたって走る道であった。(この道は官道ではない。古代人が自然の地形を利用しておのずと歩んだ古道であった。
三道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)、横大路
『日本書紀』の推古21年(613)に「難波より京に至る大道を置く」。難波大道は、難波宮から南に直進する古代の官道である。河内と大和を東西に結ぶ大津道・丹比道につながり横大路を経て、下ツ道、中ツ道、上ツ道等により、飛鳥藤原京・平城京に至ると考えられている。
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*あとがき* 《和田先生のヒストリー》
・1944年、中国東北部の遼陽市生まれ、生後間もなく郷里である奈良県田原本町に戻る。京都大学時代に考古学へ関心を持つ。専門は日本古代史。『古事記』『日本書紀』などの文献資料や、地中から発見される木簡をもとに研究。上田正昭先生、岸俊男先生、森浩一先生に学ぶ。
・古代の遺跡を訪ね、「まず歩いてほしい」、「風景を楽しんでほしい(電車に乗っても本は読まない)」(和田先生)
・参考文献:「大系日本の歴史2 古墳の時代」(和田萃著・小学館 1988年)