*自分の過去を否定した親から、子どもの溌剌さは育たない
・自分は学校を出ていないから、子どもにはいい学校(大学)に
入ってもらいたい。それが親の子どもへの愛情だ—
そう思う親は多いしそれがまた人情というものだと
一般の大人も感じているかもしれない。
だが、よく考えてみればこれは転倒した愛や人情だと私は思う
自分の過去においてできなかったことだから
それを子どもに成し遂げて欲しいというのは
自分の過去を否定していることになるのではないか
生きてきた過去の自分を否定する
そんな親から生まれた子どもは
自分の人生に誇りと未来を感じ取れるのであろうか
・1人の人間として、いま現在の生き方は過去の自分の
生き方の結果でしかない
その過去を否定していまここで息をしている自分が
活かされることはないはずだ
そのような人間に子どもの自主性に基づいた溌剌さを
身につけることなど、できようはずもないと思うのだが・・・・・
・溌剌と生きている、あるいはいきいきと生きている様態とは
自分を忘れているときである
自分を忘れて何事かに夢中になっているときである
腰が痛いときは腰を、胃が重いときは胃の存在を意識するが
健康な時は自分の胃や腰がそこにあることなど
忘れているようなものである。言い方を変えれば
溌剌さとは己の身心を一転に集中できる対象に向かっているときだ
・弓を引くとき、体は芯を通し腰を落とし腹に重心を定め
気が的の中心を射抜くがごとくの様である
そして問題なのは興味の深さにおいて
そのような対象を自発的に持つには何が必要条件と
なるのかということである。
・子どもは初めて出会うものに対して恐れと興味という2つの感情を持つ
その興味(好奇心)の感情がまされば、溌剌と生きる心も芽生えやすいと
いえるだろう
そのためには、安定した情緒が培われている必要がある
・立って歩けるようになった子どもは興味の対象を眼で追いつつ
少しずつ行動範囲を広げていこうとする。しかし一目散にではなく
後ろを振り返って母親を確認しながら対象物に近づいていく
その対象物が自分に危害を加えるようなものであれば
いつでも守ってくれる母親の存在を自分の心の中心軸にして
好奇心を満たしていくのである
情緒はこうやって安定度をましていくのであるが、遡って考察すれば
このような情緒の安定さは胎内での成長過程において
母親からの安定した生理的波動を受けて形成されてくるものなのだ
・安定した情緒は生理が土台となって培われるものなのである
からだが心を規定する
そしてその情緒の基調がその人の感性の方向となり、情緒を土台として
何が良いか悪いかを判断する倫理観ができあがってくる
その倫理観に基づいてその人なりの論理が形成されてくる
逆に不安定な情緒ではものごとを好き嫌いだけで峻別する感情が
先行して態度も硬直し、対人関係にも円滑さは生まれてこない
子どもが最初に出会った他人(おおむね母親)から
利害と無縁なあふれるほどの愛情を受けて育てば
長じて同じように他人を愛することが可能になる。そうでない場合
必要以上の猜疑心を他人に向けてしまう人間になりかねない。
そしてその猜疑心が彼らそのものをも過度なストレスで
痛めつける結果につながっていく
<椿も冬の花です>