いじめとは何か 教室の問題、社会の問題 森田洋司より その2

*欧米の考え方の背景
・1996年、国際比較調査の共同研究者であるP・K・スミスや
D・オルヴェウスらのヨーロッパやオーストラリアの研究者を
招いて、文部省と国立教育研究所が共催した
「いじめ国際シンポジウム」の楽屋で打ち合わせを
していた時のことである
私が当時の文部省による、学校向けのリーフレットを
説明していたとき,海外のシンポジストたちが一様に
疑問を呈したのは,日本の転校措置の背後にある
基本姿勢であった

リーフレットには、いじめられた児童生徒に対して
席替え、クラス替えや転校措置を柔軟に行うと記載されていた。
被害者を守るという視点から考えれば、自然な発想と
私たちには思えた。しかし彼らは一様に
「いじめられた子どものほうが、なぜ転校しなければならないのか
転校すべきはいじめた側ではないか」と疑問を投げかけてきた

ヨーロッパの発想に照らせば、共同生活の中で被害が発生し
安全が損なわれたとき学校が加害責任を明らかにし
加害者にその責任を果たすように求めるのは当然であり
それこそが、共同体における正義を実現する妥当な方法である
この転校措置をめぐって、いじめ対策の焦点を加害・被害の
どちらに置くか、そして加害行為の責任をどうとるかという点に
関する日本と欧米の違いがはからずも浮き彫りになったのだ

欧米の考え方の背景には加害者の行為の行為責任を明確にし
その責任を常に問うという欧米の歴史の中で培われた土壌がある
裏がえしていえば、行為責任の観念やそれを問う仕組みが
発達していない社会では加害性を問うことに
自ずと甘くならざるを得ない

なお、加害者の行為責任を問うといっても
いじめた子がただちに処分や懲戒を引き受けなければならない
という短絡的に考えるべきではない
集団の中で義務付けられている行為や望ましいとされている
行為を遂行する責任について自覚させること
行為の結果を予測させること
結果責任の存在と責任の取り方を自覚させることなど
一連の責任が含まれている
処分や懲戒は責任の取り方の1つのタイプに過ぎない

また、行為責任は問題を起こした者だけに伴うものでもない
いじめの当事者やその場に居合わせた者
そのことを聞いて知りえた者、児童・生徒、教師、保護者、
外部関係機関や地域の人々など、
立場によってそれぞれに責任がある

・例えばイギリスなどで試みられている「いじめ裁判」を考えてみよう
いじめ裁判は学校内に設けられ、子どもたち自身による
審理や告発・弁護が「教育プログラム」として展開される

いじめ裁判については、イギリスの教育現場でも懲罰的色彩が
全面に出かねないことを危惧し、導入に否定的な声がある
しかし欧米では陪審員制度や参審員制度など
司法への市民参加が定着している
学校という社会を構成するメンバーのすべてが
いじめを自分たちの学習と生活の場に係る事態と捉え
直接の加害者に限ることなくその発生責任を明らかにし
学校を楽しい場にする責任がある

したがって、「いじめ裁判」は単なる犯人捜しや加害者の
責任を問う場ではなく
いじめの抑止を直接の目的としたものでもない
むしろ、子どもたちに考えさせるきっかけとして
社会や集団の中での自己のあり方を
どのように形成していくかという課題を達成させる試みである
その点では市民性(シティズンシップ)教育と
法教育の一環として捉えることができる

<カトレアは花の少ない冬には貴重な花です>