生きる意味 上田紀行より その1

*「数字信仰」から「人生の質」へ

現在進行するグローバリズムの動きや
「構造改革」が私たちの「生きる意味の回復」を
もたらすものではないことを見てきた

それらは回復よりもむしろ生きる意味の崩壊を
もたらす可能性が大きい
それにもかかわらずそうした政策が立案され
走り出してしまうのは
そもそも最初からそこには大きな勘違いがあるからである

それは「経済成長が私たちの幸せをもたらす」という
単純な原理への信仰である
この信仰は長くこの日本社会を支配してきたので
私たちはその信仰への未練をまだ断ち切れないでいる

宗教を研究してきた文化人類学者という
私の立場から見れば
日本人が無宗教だと言われることには同意しないが
それでも第2次世界大戦後の日本をどんな信仰が
支えてきたのかと聞かれれば、仏教とか神道とかではなく
「経済成長教」だと答えたくなる

神も仏もいるにはいるが、それが社会の統合原理として
際立った働きを見せなかった戦後の日本社会で
これだけの統合が保たれたのは
「経済成長が私たちの幸せをもたらす」という信仰が
私たちの生をしっかり支えていたからだろう

バブルの崩壊までその信仰はほとんど揺らぐことがなく
私たちの幸せを支えてきた
「今日よりは明日のほうが絶対に豊かになり幸せになる」ことが
保証されているのであれば、
なぜその信仰を疑う必要があっただろうか

しかし今や私たちにとって必要なことは
その『経済成長教』の賞味期限が切れたという
事実を認識することである

それは年長世代にとっては辛いことだろう
なぜならばバブルが崩壊した年、
1992年という数字から自分の誕生年を引き算した年数だけ
(戦後からであるから最長47年ということになるが)
私たちはその信仰の信徒であったわけであり、
この信仰を否定することは他の宗教からの転向同様、
自分自身の人生が否定されたことのように
感じられるからである

しかしそれはあなたの人生を否定することではない
それどころか、先行世代の努力があったればこそ
「経済成長教」から私たちは次なる段階へ
移行できるという意味で
それは大きな賞賛をもって遇されるものであろう