出会い(出合い)は一瞬

夕方、パソコンをいじっておりますと、

雨がパラパラ・・・数分で止みました。

すると窓の向こうに薄っすら〜と虹がかかっていましたので、

パシャッ☆と撮影。そしてまたパソコンいじり。

数分後また窓の向こうを見ました。もう虹は消えていました。

出会いは一瞬。

出会い(『縁』の発生・到来)というものは、

自分ではどうすることも出来ない・・・

いわば「他力本願」的な要素もありますが、

それを掴むかスルーするか・・・

はたまたいい縁にするかわるい縁にするかは、

やっぱり、自分自身にかかっており、

それは完全なる「自力本願」ですよね。。。(しみじみ)

・・・カーラジオを何気なしに聞いていると、

ふっ・・・と、『愛してる』という歌詞に意識が向きました。

『愛してる』とは、『愛』という「もの」「こと」を表す名詞と

『する』という動詞の現在進行形(「い」が抜けていて口語的)

で構成されております。

ふっ・・・と

「『愛』を『する』って、直訳するとどういう意味なんやろうか?」と

更に考えを深めていき、あれこれ考えますと、

「『愛』というものを『する』んや〜(^0^)!

じゃー、『愛』という名詞は一体何なん?!」という

全くもって素朴且つ何回な疑問が湧いてきました。。。(笑)

『愛』って、何を・・・またどのような状態を

表現する名詞(言葉)なのでしょうか?

そんなこと今まで深く考えたことがありませんでした。

・・・私の勝手な推測ですが、

『愛』とは、自分以外の・・・決めた人やもの(対象)に向けて

自分が持つもの「何か」を与えたいと思う心なのではないでしょうか。

その対象に向けて、あらゆるもの

(心・想い・気持ちそのものや、お土産など物に自分の心を乗せて

与える場合の両方)を与え(捧げ)、

その対象物のよりよい幸福を実現させようとする、

心の有り様なのかなって思いました。

「与える」という行為の逆が「得る」かと思われます。

欲深き我々人間は、「欲しい、もっと欲しい」と思い、

自己に全てのもの(対象)を引き寄せようとしますが、

この『愛』というものは、

自分自身の心が、全く反対方向へ向いています。

そんな意味においては

「愛」の反対語は、「我儘」でしょうかね?(^^;)

そのような考えを踏まえますと、「恋」というものは、

自己中心的・自己のみの幸福感の追求からは脱しておらず、

「我欲・我儘」の一種かと思われますが、

「自分の『恋』という感情・欲」が「愛」へと変わってゆくと、

この世の中は、『地上の楽土』に成ってゆくのではないでしょうか。

ですので、「恋」(関心を持つ・好意を持つ感情・行為)はあくまで、

『愛の入口』であり、愛、そのものではなさそうです。

そのあたりを混同したらアカンなと感じました。

「恋心」が自己快楽&幸福のみ(我儘)へと堕落してゆくか、

それとも愛へと昇華してゆくかは、自分と相手(対象)との修行のレベルで

決まってゆくのかなと思います。

この愛へと昇華してゆくべき、この『自分対人(自分以外の対象)』との修行は

この世で最も難しいレベルの修行なのではないでしょうか?

また、この世の修行の根幹を占めるものなのかも知れません。

対立する2つの個体が、修行の末、心身(物心)が合一すると

物事が全てが生成発展してゆきます。

その合一の瞬間瞬間が『愛』というものなのかも知れません。

・・・そんな『愛』という心の有り様(名詞)に、『する』という動詞が付いて、

愛を発心する・・・愛を言動で表現する・アウトプットする

ということが『愛する』という言葉の意味なのではないでしょうか。

最後に、一般的に『愛してる』という言葉は、

狭義では、恋愛中の異性に対して使われる名詞+動詞ですが、

広義においては、自分以外の全ての対象物に使われるものだと思われます。

狭義でも狭義でも、愛や愛する・・・愛していると感じたり、

言動に出したりと、そんな『愛の世界・境地』を出来る限り多く、

この世で体験したいですいし、そして

自分で創ってゆきたいなと思います(%笑う女%)(%晴れ%)