「義に生きることを美徳とし、
卑怯に生きることを恥とする心」
この言葉、しびれますねぇ〜(%笑う女%)(%ハート%)
義に反する人間・卑怯に生きるという
どうしようもなく、魂レベルの低い人間が
目の前に現れましたら、
気分は一気に『蔵王権現さま』の如く(?)
「恕」をベースにしつつも、
青く怒りの血相に密かに変わり、
ありとあらゆる手法を使って、
その人間を『地獄道』に、堕とすべく、
「ゼロから修行し、人間として出直して来い!」って
心の中で言ってます(笑)。
何でもかんでも「可哀想だから」と、同情で上げて差し上げても、
結局、その人のよりよい人生(修行)のためには
ならないということに気づきました。
(つまり、その人は自分の真の過ちに気づかず、真の反省・懺悔はなく、
同じこと・それ以上の間違いを繰り返し、自身やその周りの人生を泥沼化させます)
『敢えて、つき堕として差し上げる』のもまた、
その相手さまにとって必要な「人生遍路道」なんだと
私は、敢えてそのような汚れ役(悪役)を演じきるという潔さや覚悟も
必要なんだと思う場合もたまにはあろうかと、最近は思っています。